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    • 2017.01.17 Tuesday
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    星野仙一の二軍記録

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      半年以上空いてしまったが、久々に更新する。

      昨日、星野仙一、平松政次、伊東勤の3名の殿堂入りが発表された。

       

      3人の現役時代の記録を見る限りほとんど下積み期間がないように感じるが、3名とも二軍戦に出場した記録が残っている。

      まずは星野仙一の二軍記録を紹介する。

       

      hoshino

       

      星野のプロ入り初登板は1969年4月13日の広島戦。先発するも2回3失点で敗戦投手だった。

      この結果を受けて二軍での調整を命じられ、4月24日のウエスタンリーグ・阪神戦(中日球場)に先発した。

      被安打6、2失点で完投し”プロ入り初勝利”を記録するが、バッテリーを組んだベテランの高木時夫からは「スピードがないから一軍で通用するか疑問」と厳しい評価を受けた。

       

      この試合から11日後の5月5日、福井県営球場の広島戦で約1カ月ぶりに一軍戦のマウンドを踏んだ。二軍戦でバッテリーを組み厳しい評価だった高木時と再度バッテリーを組むが、6回途中まで投げて1失点と好投。正真正銘のプロ入り初勝利を記録した。

       

      2度目の二軍戦登板は2年目の1970年5月3日のウエスタンリーグ阪神戦(甲子園)だった。

      4月22日、23日、30日の一軍戦で3試合連続失点。4.2回を投げて10失点と絶不調だったための調整登板だった。結果は5回2失点だったが、6回表が終わったところで降雨コールドとなったため星野には完投が記録された。

       

      3年目の1971年は開幕から4試合に登板して7回を投げて14失点。

      5月1日の登板を最後に二軍落ちを命じられ、調整期間を経て5月22日のウエスタンリーグ近鉄戦(藤井寺)で3回から救援登板。最終回まで投げ切るロングリリーフだったが無失点で勝利投手となった。26日、31日は先発でいずれも完封勝利。この年は二軍戦3試合に登板して3勝、25回無失点で防御率0.00だった。

       

      この年を最後に二軍戦での登板はなし。生涯の二軍経験は5試合だった。


      巨人三軍、警視庁相手にノーヒットノーラン

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        4月以降、四国ILリーグ、BCリーグとの対戦のため四国、北陸地方を転戦している巨人三軍。
        独立リーグとの交流戦はここまで30試合を消化して14勝13敗3引き分け。


        本日ジャイアンツ球場で久々にアマチュアとの交流戦が行われた。相手は警視庁の野球部。
        警視庁に野球部が発足したのは2009年のこと。今年で8年目を迎え、2006年から2008年まで巨人でプレーした加登脇卓真が在籍する。

         
        巨人三軍は主に四国、北陸で転戦してきたためこれまで試合を見る機会がなかったが、土曜日のジャイアンツ球場ということでようやく観戦することができた。なかなかお目にかかれない警視庁相手だけに4月に予定が発表された以来、楽しみにしていた。


        ジャイアンツ球場には警視庁の関係者と思われる人たちがたくさん来ており、そこら中で挨拶が飛び交っていた。非公式戦ながらスタンドは5割近くが埋まっていた。
        既にネット上で試合の結果は配信されているが、巨人三軍が警視庁相手に3投手の継投でノーヒット・ノーランを達成した。




        巨人の先発は4月12日入団したドミニカ出身のソリマン。MAX153キロの快速右腕。
        5月10日に初登板以降、4試合に登板して20回を投げている(7失点、2自責点)。イニングを上回る21三振を記録している一方、8四球とコントロールにやや難のある投手だ。


        初回、ソリマンは2番・北野をストレートの四球で歩かせる。捕手とのサインが合わないのかイライラしている様子もあり、いきなり松崎がマウンドまで足を運んでいた。3番・吉川、元巨人の4番・加登脇にもカウント3−2まで行くが何とかしのいだ。


        警視庁の先発は高村孝平。詳しいデータがないが、かなり小柄な印象だった。ストレートは120キロ台で100キロ台のカーブを投げる軟投派。初回・内野安打で出塁した2番・盒衿が3番・青山の初球に二盗、4球目に三盗に成功。三塁まで進み青山の投手ゴロで飛び出し挟まれるが、タッチを交わして三塁に戻りセーフ。4番・アブレイユのライト犠牲フライで巨人が先制した。


        立ち上がり不安定だったソリマンだが、2回8球、3回7球、4回8球で三者凡退。打者9人のうち、7人が3球目までに手を出していた。コントロールに難のあるソリマンだけに、警視庁の早打ちに助けられていた感じがした。


        巨人は3回裏にアブレイユの2ランホームランで2点を追加。その後も松崎にホームランが飛び出すなど11安打9得点。
        2回以降は立ち直ったソリマンはMAX148キロのストレートを武器に快投。140キロ台後半のストレートを連発し、終始、警視庁打線を圧倒した。5回、6回に先頭打者を四球で歩かせるが、7回90球を投げて1本のヒットも許さなかった。


        8回を投げたペレスもノーヒット。9回は盒郷気マウンドに上がった。一死後、2番・北野が一塁へ痛烈なゴロを放ちファーストの松崎は打球を弾くが、弾いたのが一塁ベース方向でボールをそのまま広い一塁ベースを踏んでアウト。警視庁の関係者たちからはため息が漏れた。31人目の打者、加登脇が2球目にライトへ特大のファールを放った時はこの日一番の盛り上がりを見せたが(打った瞬間にファールと分かったが)、最後はセカンドゴロでアウト。

        巨人は三投手のリレーでノーヒット・ノーラン勝ちを達成した。注目された元巨人の加登脇は4打数0安打2三振だった。
        おそらく、警視庁はこれほど球の速い投手を見たのは初めてだったのではないか。そういう意味でも非常にいい経験になったと思う。


        打者成績

        盗塁 警=北野(1回) 巨=盒衿3(2回、2回、8回)、芳川(7回)、松崎(2回)
        盗塁死 警=北野(6回)
        失策 警=山之内2(5回、8回)、照屋(5回)

        投手成績


        初めて指名打者が採用された日

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          5月29日、日本ハムは指名打者を解除して先発の大谷翔平を6番に入れた。
          黄金時代の西武が優勝決定後に日本シリーズ対策で指名打者を使わずに9番に投手を入れたことはあったが、指名打者制度導入以降、試合当初から指名打者制度を使わずに純粋に投手を打順に入れるのは初めてのことだったらしい。


          日本プロ野球において、パリーグで指名打者制度が導入されたのが1975年のこと。それよりも4年前の1971年、イースタンリーグで指名打者制度導入についてを検討していたことは以前に紹介したが、今回は日本プロ野球で初めて指名打者が採用された日を紹介したい。


          イースタンリーグで指名打者制度導入が検討された4年前の1967年までさかのぼる。この年の11月1日から巨人、大洋の2球団による秋季教育リーグが7試合組まれるが、この7試合で”投手への指名代打制度”が試験的に導入された(この頃は、指名打者という用語がまだなかった)。

          投手への指名代打制度のルールは、「両チームはスターティングメンバーに投手を入れるが、投手が打席に入るたびに代打を送ることができ、代打を送られた投手は交代することなく引き続き次の回もマウンドに上がれる。」というもの。

          1967年11月1日、大洋−巨人の教育リーグ第1回戦の先発は大洋が淵上澄雄。巨人が菅原勝矢。
          淵上は打順9番、菅原は打順8番に入るが、この両者が打席に入るたびに代打が送られた。初めて指名代打で打席に立ったのは、大洋が小山正で巨人が塩原明だった。

          小山は淵上に代わって2打席立ち、3打席目は古田忠士が起用された。一方の巨人は1打席目が塩原、2打席目が滝安治、3打席目は槌田誠が代打で起用されるが、大洋、巨人ともに指名代打で起用された選手は3打数無安打に終わった。


          この後、イースタンリーグでもしばらく指名打者制度は封印されるが、1972年のイースタン春季教育リーグで再び試験的に導入されている。
           

          マンスリーレポート〜巨人三軍〜

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            今月は立て込んでしまいブログを全く更新できなかった。
            せめて巨人三軍の5月の記録だけはアップしたい。


            まずはチーム成績。
            独立リーグとの交流戦が本格化し、北陸と四国を行き来し18試合を戦った。
            連勝は5月5日、6日の1回だけ。7勝10敗1引き分けと相変わらず苦戦が続いている。




            打者成績


            チーム打率は低く長打も少ないが、盗塁数は試合数を大きく上回る25個。

            2014年からの2シーズンを徳島インディゴソックスでプレーした増田大輝が絶好調。全18試合に出場して無安打はわずか3試合のみ。半数の9試合でマルチヒットを記録し、5月25日には4打数安打をマークした。そしてチームトップの9盗塁を記録。
            二塁、遊撃を守れるだけにこのまま結果を残し続ければ今シーズン中に二軍昇格、支配下登録のチャンスもあるのではないだろうか。

            先日入団したキューバの国内リーグ打点王のガルシアは5月31日の富山戦にさっそく出場し、5打数2安打1打点だった。

            川相拓也は5月12日のBC群馬戦で盗塁を決めた際に左太ももを肉離れして戦線離脱。試合から遠ざかっている。


            投手成績


            ドミニカ組のソリマン、アダメスが5月から合流。仲良く1勝ずつしている。
            リハビリのため三軍で調整していた西村は二軍に昇格。4月は12回を投げて防御率0.00だった篠原が不調。
            そしてドラフト7位入団の新人・中川が好調。先発した5試合はすべて6回以上を投げて2失点以内。左投手だけに二軍昇格も近いだろう。


            6月はプロアマ交流戦として11日にジャイアンツ球場で警視庁との試合が予定されている。また、6月21日から28日までの1週間、台湾への遠征も予定されていて非常に楽しみだ。
             

            巨人三軍、交流戦始まる

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              今年創設された巨人の三軍。
              4月に入り、四国アイランドリーグ、ルートインBCリーグとの交流戦が始まった。


              2011年からの2年間、実質的な三軍にあたる第2の二軍を擁したが、この頃は社会人、大学生との交流戦がメインだった。今回の三軍は四国アイランドリーグ、ルートインBCリーグとの交流戦がメインとなる。
              両リーグともこれまでにNPBに何人もの選手を輩出しており、指導者もNPB出身者たちが名を連ねる。実力は相当に高い。

              交流戦はリーグの公式戦扱いとなる。また、試合で巨人関係者の目に留まればプロ入りへの道が開ける可能性もあるだけに相手も本気の真剣勝負だ。


              以下、4月の巨人三軍の成績
              巨人三軍4月


              巨人三軍は4月9日に愛媛に乗り込んで四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツと交流戦を行った。
              愛媛には去年まで元中日の河原純一が在籍した。今年は日本ハム時代の2002年に新人王の正田樹、昨年ヤクルトでプレーしたデニングが在籍する。
              また、「細かすぎて伝わらなモノマネ選手権」で再三野球選手のモノマネを披露するお笑いコンビ・360°モンキーズの杉浦双亮(登録名はサブロク双亮)が今年入団したことが話題となった。


              巨人は愛媛相手にサヨナラ負けの2連敗。初戦は田原啓が8.2回を投げて無失点と好投するが、9回に二死二塁のピンチの場面でかつての守護神・西村と交代。すると、その西村が大乱調。2四球で満塁とピンチを広め、最後はサヨナラヒットを打たれている。
              4月10日、4月13日のいずれも9回に西村が失点して敗戦。西村は3試合連続でリリーフに失敗している。

              いきなり3連敗スタートで心配された巨人三軍だったが、4月22日からは4連勝。
              4月29日の富山サンダーバーズ戦では、8回終わった時点で1‐3とリードを許すが9回表に4点を挙げて逆転勝ち。
              また、4月30日も2-3と1点リードを許して9回を迎えるが、最終回に土壇場で同点に追いつき引き分けに持ち込んだ。

              4月は8試合で4勝3敗1引き分け。


              続いては4月の個人成績
              巨人三軍4月打撃

              8試合で本塁打0本で18盗塁。
              今年から育成契約に切り替わった坂口が30打数15安打、打率.500と打ちまくっている。通算でも61打数25安打。昨年までの3年間でイースタンリーグでは24本塁打を放っているだけあって三軍では頭一つ飛びぬけている。しかし、本職の三塁にはプロスペクト・岡本和真の存在がある。岡本は二軍で結果を残しており一軍昇格を虎視眈々と狙う。岡本とポジションの被る坂口はとにかく打ちまくってアピールをするしかないだろう。

              そして、右ふくらはぎ肉離れで出遅れた橋本到が三軍で調整中。2年前は一軍の外野のポジションを掴みかかったが、度重なる故障でチャンスを逃し、その間に立岡が台頭。ここから再び這い上がれるか。また、かつての盗塁王・藤村大介も2試合出場している。


              巨人三軍4月投手

              投手は田原啓吾が好調を維持。15.2回を投げて自責点はわずかに1。通算でも30.1回を投げて自責点は3で防御率0点台。
              育成選手として入団して今年で4年目。左腕だけに今後の支配下登録の可能性は十分にあるのではないだろうか。

              昨年までルートインBCリーグの武蔵ヒートベアーズに在籍し、今年から育成選手として入団した大竹秀義が10回を投げて失点0。
              大竹はNPB入りを目指して2009年から独立リーグプレーを続け、今年の8月で28歳になる。育成1年目ながら結果が求められる。


              5月は18試合の交流戦が組まれている。引き続き、巨人三軍の動向を追う。

              山本功児の二軍成績

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                まだ64歳。早すぎる。
                1975年、ドラフト5位で巨人に入団。本職の一塁には王貞治がいたため外野も掛け持つ。
                死去のニュースを聞いて山本の二軍での成績を調べてみたが、意外なことが分かった。


                yamamotokoji

                ドラフト下位入団の選手で、本職の一塁には王貞治がいながら、巨人時代に二軍の試合に出場したのは1試合限り。
                ロッテ時代の1984年〜1988年は1試合の出場もない。13年間の現役生活で二軍の試合に出場したのはわずかに1試合のみだった。


                ドラフト制度開始以降、巨人では高田繁、原辰徳の2人が生涯二軍戦に出場経験がないまま現役を引退したが、山本功児もその可能性があった。高田、原はバリバリの主力選手だったのに対して、山本はロッテ移籍以降にレギュラーポジションを掴むが巨人時代は準レギュラーの控え選手。一軍のレギュラーではないにも関わらず、二軍経験皆無(1試合だけあるが)の極めて珍しい現役生活だった。

                 

                ライト中畑清

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                  2004年に発売された「The official baseball encyclopedia 日本プロ野球記録大百科」には投手、打者の詳細記録のほか、ポジション別の試合出場数が載っている(その後、改訂版が発売されないのは残念だ)。


                  この分厚い記録集を眺めていると意外な発見がある。
                  その一つが、特定のポジションのイメージが強い選手が思わぬポジションを守っていたことだ。
                  例えば、王貞治は生涯で2試合だけ外野での出場経験があり、長嶋茂雄も若い頃に遊撃で18試合、外野で1試合に出場している。
                  個人的に気になったのが中畑清。一塁で879試合、三塁で346試合に出場している他、二塁、遊撃、外野で各1試合に出場している。
                  ファースト、サード以外を守る中畑のイメージが沸かない。

                  気になったので、個人的に二軍でのポジション別の試合出場数も調べてみた。



                  中畑のイースタンリーグでの守備別出場数

                  守備位置はファースト、サードのイメージしかない中畑だが、新人時代は二軍でショートでも出場。二軍では内野の全ポジションをコンプリートしている。

                  外野手としての出場は1977年に1試合あるのみ。7月5日の日本ハム戦(日本ハム多摩川)に「三番センター」で出場している(試合途中からサードへ)。この試合、外野手の猪口明宏がファースト、普段はファーストを守る伊原春樹がサードで出場している。普通に考えれば、ファースト・伊原、サード・中畑、センター・猪口だろうが、いつもと違う守備位置には何らかの意図があったのだろう。中畑が二軍で外野手として出場したのはこの1試合だけ。


                  では、一軍の試合で外野を守ったシチュエーションはどうだったのか。

                  中畑が一軍で外野を守った唯一の試合は1984年9月30日の大洋戦。
                  この試合は後楽園球場のシーズン最終試合。この年、巨人は3位に終わるが、観客動員数は297.4万人の新記録を達成した。
                  優勝の可能性がなくなった消化試合でも多くのファンが球場に足を運んでくれることに感謝の気持ちを込めて、「選手を代表してライトスタンドのお客さんにお礼を」と王監督は考え、最終回の9回表にライト・中畑が実現した(守備機会なし)。
                  当然、ライトスタンドの巨人ファンは沸きに沸いた。


                  中畑がDeNAの監督だった2013年、この年限りで退団することが決まったラミレスを最終戦でライトで起用しようとしたのは記憶に新しい(ラミレスが固辞したため実現しなかった)。もしかしたら、自身が現役時代の経験に基づいての発案だったのかもしれない。

                  三軍の歴史−下−

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                    1980年代、NPBの支配下登録選手の上限は60名までと決められていたが、西武の管理部長・根本陸夫は1チーム90名がベストな人数だと考えていた。

                    この当時は支配下外の練習生が黙認されており、西武は練習生をうまく活用していた。有望なアマチュア選手が他球団と接触しないように練習生として囲い込む一方、一芸に秀でた者も練習生として登用しており、学生時代は野球未経験ながら、やり投げ出身で鉄砲肩を武器としていた日月鉄二のような異色の選手も練習生として在籍した。

                    また、一軍でプレーするには時期尚早ながらも将来が期待される若手選手を任意引退の扱いとし、マイナーリーグに野球留学をさせて実戦経験を積ませていた。


                    しかし西武球団内で野球留学の成果に対して疑問の声が上がりはじめ、長年続いた野球留学は1988年限りで廃止された。
                    そのため1989年からは支配下外の選手は西武第二球場で練習をしたが、支配下外の練習生たちはビジター用のブルーのユニフォームを着用し、日野茂コーチが責任者として面倒を見た。白いホーム用のユニフォームを着た二軍とは一線を画しており、ビジターのブルーのユニフォームを着た選手たちが実質的には三軍として扱われた。


                    一方、資金力豊富な巨人も多くの選手を抱えていた。そして藤田元司監督はファーム制度の充実を提唱していた。
                    二軍には限りなく一軍に近い選手もいれば、基礎体力作り優先で試合に出る段階ではない選手もおり、選手個々の実力差も大きなものがあった。そのため、練習についていけない選手も出てきており、特に「未熟で育成段階にある新人選手を二軍の中に置いておくのは無理がある」と藤田は考えていた。また、故障者がリハビリに専念できるような環境を整えたい意向も持っていた。

                    こういった背景もあり、巨人は1990年から「基礎体力作りが必要な若手選手(主に新人)」「ケガからのリハビリ組」で編成する三軍を新設することになり、初代三軍監督には木戸美摸、三軍コーチには関本四十四、河埜和正、樋沢良信、宇都博之が就任した。さらに、1990年のシーズン途中の7月に現役を引退した津末英明も三軍コーチ陣に加わっている。
                    巨人三軍はドラフト外で入団した練習生たちで構成され、主に多摩川グラウンドで基礎訓練を課された。登板日漏えい問題で出場停止処分を受けていた桑田真澄や、開幕早々にわき腹痛で登録抹消された原辰徳も一時、三軍で調整をしている。


                    巨人が三軍を新設した1990年5月11日、西武と大洋の支配下外の選手たちで練習試合が組まれれるが、この試合が球界初の三軍戦と言われた。

                    1990年5月11日 西武第二球場
                    大洋三軍 000 000 000 = 1
                    西武三軍 201 010 14X = 9
                    (大)松村、本間、知野、塩崎−名幸、榊原
                    (西)鈴木哲、加世田、逢坂、広瀬−垣内
                    本:野々垣、垣内


                    日本ハムや巨人も三軍戦に意欲を見せたため三軍制も発展していくかに思われたが、1990年限りでドラフトを経由せずに選手を獲得することが禁止された。また、これまでは黙認され続けてきた練習生も1991年を最後に廃止された。
                    さらに1992年から支配下選手数の上限は60名から70名に拡充されたため、三軍制にする意味が薄れたこともあり、巨人三軍は創設からわずか2年限りで廃止された。


                    巨人よりも早く1989年から実質的な三軍制を採用していた西武は、1992年に正式に三軍を新設するが、この年のオフに廃止された。

                    三軍の歴史−中−

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                      1967年8月25日、近鉄三軍創設に向けて日生球場で行われた第一次テストには98人が参加した。

                      ダイヤの原石を発掘すべく、第一次テストには一軍、二軍の全首脳陣と球団職員が総出したが、首脳陣は一様に顔を曇らせた。集まったのはキャッチボールもろくにできないような素人が大半。取材に来ていた記者たちからは失笑が漏れるほどで、3年先に大成しそうな逸材はとても見当たらなかったのだ。
                       
                      それでも三軍構想を大々的に発表してしまったため、後に引くことはできなかった。
                      とりあえずは「体力と根性がありそう」な受験者に的を絞り、結果24人が第一次テストを通過した。
                       
                      24名は翌26日から31日まで藤井寺球場に合宿し、第二次テストを受けた。
                      しかし第一次テストの時点で目ぼしい逸材がいないのは分かっており、半ば強引に第一次テストを通過させたにすぎない24名。
                      当初は三軍創設のために10名前後の獲得を目指したが、最終的にこの中から合格したのは4名だった。
                       
                      テストに合格した近藤義之(投手)、釜野照義(投手)、東新昇(投手)、原野一博(内野)の4名に、2年目の金城晃世(息子は巨人三軍コーチの金城龍彦)を加えた5名が三軍として位置づけられたが、この中で注目されたのが近藤義之だった。


                      近藤は1953年1月1日生まれ。すなわち、近鉄の就職試験(入団テスト)受験時は14歳だったことになる。
                      神奈川県川崎市在住の中学3年生だった近藤は、身長175?の体格(当時は大柄な部類だった)と左腕ということを買われ、近鉄の就職試験に合格。中学を卒業と同時に近鉄に入団、弱冠15歳だった。


                      近藤の日課は、昼は練習に時間を費やし夜は大阪の定時制の高校に通った。1月生まれだった近藤は、1968年のシーズン始まってから終了まで15歳で過ごしている。中卒、15歳でプロ入りした選手は過去に何人かいるが、他はシーズン中に16歳の誕生日を迎えており、シーズン通して15歳だったのは日本球界の歴史の中でも近藤が唯一ではないかと思う。
                       
                      とりあえずは5名でスタートした近鉄の三軍だったが、1967年のオフに監督に就任した三原脩は三軍には否定的だった。三軍の考え方そのものは素晴らしいが、日本球界は二軍の環境ですらじゅうぶんに整っておらず、現時点では時期尚早とみていたので。

                      そんな事情もあり、近鉄の三軍がこれ以上に発展することはなかった。金城は1968年限り、釜野、東新は1969年限りで引退し、原野は1970年シーズン途中に退団した。唯一近藤だけは残ったが、支配下登録されることはなかったためウエスタンリーグの試合にすら出場することもできず、1972年、南海に移籍した。
                       
                      結局、誰一人芽が出ることないまま近鉄から去る結果となり、近鉄が目指した三軍構想はあっさりと終焉した。

                      三軍の歴史−上−

                      0
                        前回の記事で今年から創設された巨人三軍の3月までの足跡を書いてみたが、現在、日本球界ではソフトバンク、巨人、広島の3球団が三軍制を採用している。しかし、広島については三軍はケガ人のリハビリの場という位置づけなので、選手の育成を目的とし、チーム単位で対外試合を行っているのはソフトバンク、巨人の2球団のみ。

                        以前、当ブログでは三軍の歴史を紹介したことがあるが、追加調査によって新たに分かったこともあるので、改めて三軍の歴史についてを書いてみたいと思う。


                        日本球界で最初に三軍制度に目を付けたのは近鉄バファローズだった。
                        1967年、かつて近鉄の監督を歴任したこともある芥田武夫が近鉄の球団社長に就任するが、芥田はスカウト活動に年間2,000万円もの経費を費やしていることに疑問を感じていた。

                         
                        ・1965年にドラフト制度が始まったため、目を付けていた選手が入団するとも限らない。
                        ・有望選手に関しては自然に情報も入ってくるので、ドラフトで交渉権さえ獲得できれば選手の入団にこぎつけられる。
                        ・スカウト制度そのものが無意味なのではないか

                         
                        こんな考えから、近鉄はスカウト制度を廃止した。
                        当時、メジャーリーグでは各球団アマチュア選手に関する情報を幅広く得るために、新人選手入団につながる有力な情報を提供してくれた人に対して謝礼を支払う制度があった。スカウト制度を廃止した近鉄はこれを参考に、芥田が朝日新聞社に勤務していた頃の伝を頼りに、仙台、東京、名古屋、中国、九州に情報提供者を置き、そこからの情報を元に新人選手を獲得することを試みた。
                         
                        さらに、当時の監督(選手兼任)・小玉明利が芥田自身が監督だった時にテストを経て入団したことにも着目し、日本中を探せば今は無名でも将来的に大選手になり得るようなダイヤの原石が眠っているのではないかと考えた。
                          
                        「ダイヤの原石を探し、一から野球を教え込んで育成すればお金がかからない。」
                        3年先の戦力を養成するのを目的に、「どうしてもプロ野球でやりたいという強い意志と素質のある若者」に狙いを定め、三軍制を採用することを決め、1967年7月24日に発表した。

                         
                        そして近鉄は三軍構想を実現させるべく、1967年8月25日に日生球場で就職試験を行った。
                        入団テストではなく就職試験と銘打ったのは高校生がプロアマ規定に抵触しないようにするためで、在学中の志望者には学校からの推薦状を持参させ、合格者は翌1968年4月に近鉄球団へ職員の扱いで入社することが予定された。


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