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    • 2017.01.17 Tuesday
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    第3回 味方にやられて流血の不運!吉原孝介

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      ブログの先月のアクセス数を見てみたところ、検索ワードの上位だったのが「岡田展和」。
      有名選手であれば検索すればいくらでもヒットするだろうが、岡田は比較的マイナーな選手。検索するとこのブログが上に来るようだ。


      私は巨人ファン。元々このブログを立ち上げた時、私が見てきた主に80年代〜90年代に巨人に在籍していたマイナーな選手をエピソードつきで紹介しようと思い、「懐かしのマイナー選手」というカテゴリーを作っていたが、岡田展和、高村良嘉の2選手でストップしていたので、これからはこのカテゴリーも定期的に更新していこうと思う。


      前回の岡田展和から8カ月のブランクを経て、第3回目に紹介するのは吉原孝介捕手。


      俊足・強肩の捕手として1990年ドラフト2位で入団。この時、巨人は後に阪神の正捕手となる矢野輝弘をドラフト指名している。しかしながら中日との競合の結果クジを外し、外れ2位で指名したのが吉原だった。おそらく矢野が巨人に入団していたら、後に球界を代表する捕手になることはなかったのではないだろうか・・・


      吉原がドラフト指名された1990年は、腰痛持ちの中尾、衰えの隠せない山倉に代わり、パワフルな打撃を武器とする8年目の村田真一が台頭。6月以降はほぼ正捕手の座を手中にした。この年の投手陣は130試合で70完投、一軍登板したのはわずか10人のみで1年間を乗り切るほどの無敵状態を誇っていた。ところが1991年は一変して自慢の投手陣が崩壊。さらに正捕手の座をつかんだかに思われた村田は、右肩に手術歴のある弱点を突かれ相手チームにフリーパス状態で走られまくった。そのため、新人ながら強肩を武器とする吉原に白羽の矢が立った。


      1991年5月5日、巨人の新人捕手としては山倉以来となる一軍の試合でマスクを被り、7月3日のヤクルト戦(神宮)ではスタメンマスク2試合目にして、打ってはプロ入り初ヒットとなる決勝ホームランを含む3安打猛打賞。守っては斎藤雅樹を完封勝利に導く好リードを見せ、以降、しばしマスクを被りハツラツとしたプレーを見せた。一気に正捕手候補に名乗りを挙げ、1992年は開幕カードが足を武器とするチームカラーの広島だったことから開幕からスタメンマスクを任されている。順調なスタートを切ったプロ2年目だったが、開幕4試合目の阪神戦(東京ドーム)で5回裏に盗塁を試みスライディングした際に左足を負傷。これで靭帯を痛めてしまい、以降のプレーに精細を欠いた。その間に西武からトレードで大久保博元が加入。そして大久保が大活躍したことにより吉原の出番は激減する。さらに一度は正捕手争いから脱落しかけた村田も巻き返し、その後の吉原の野球人生は控え捕手としての道を歩むこととなる。


      ルーキー時代にはつらつとしたプレーを見せて2年目のシーズンには正捕手のポジションを掴む寸前のところまでいったが、ケガによってチャンスを逃してしまった。逃した獲物は大きくその後は第三捕手の位置づけとなり、あまり目立たない選手に成り下がってしまった。

      第三捕手のため出場機会は限られベンチを温める日が増えるが、そんな中、1998年7月31日に事件は起こった。球審のジャッジに不満を募らせたガルベスが、降板の際に手に持っていたボールを球審にめがけて投げつけたのだ。さらにガルベスは大暴れし、これを止めに入った巨人の選手の顔にガルベスの肘が入り、口の中から流血するシーンがもろにテレビに映し出された。味方であるはずのガルベスの手によって負傷させられた不運な選手こそ吉原だった。

      翌1999年、正捕手の村田真一が4月7日の横浜戦(横浜)で斎藤隆から顔面死球を食らい左ほお陥没骨折の重傷を負い、二軍で調整中の吉原に一軍からお呼びがかかる。ようやくめぐってきたチャンスで、第三捕手ながらも経験のある吉原の出番も増えるかと思いきや、5月16日、同一リーグの中日の捕手・光山英和とのトレードが成立。おそらく吉原には「なぜ?」という気持ちがあったのではないだろうか。トレードが発表された当日の横浜戦にも吉原はベンチ入りし、巨人はこの試合に勝利するがナインとハイタッチする吉原の姿がすこし悲しげに見えた気がした。


      こうして吉原がシーズン途中に寂しく巨人を去った。その後、中日を経てオリックスに移籍するが、2011年に10年以上の時を経て、コーチとして巨人に復帰を果たした。ちなみに桑田真澄は吉原のキャッチングを好んでおり、桑田が先発する試合では吉原がスタメンマスクを被る機会が多かった。

      第2回 岡田展和

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        本日はミスター敗戦処理こと岡田展和投手です。1992年〜1999年の8年間巨人に在籍、背番号は若い番号の13番をつけていました。1994年〜1998年の5年間は153試合に登板しているので、この5年間は1年平均でも30試合前後投げていたことになります。しかしながら、2014年に発売された巨人軍の80年史には岡田の事はどこにも紹介されていません。また、当時からの巨人ファンでもある私の友人は「岡田って誰??」と言います。1990年代は巨人戦が全試合テレビ放送されていた時代なのになぜ?

         

         

        岡田は敗戦処理の役回りが多かったため、試合が劣勢の状況、大敗の状況の中での登板することが大半でした。試合を諦めた巨人ファンはテレビのチャンネルを野球放送から変えてしまい、岡田が登板している頃には違う番組を見ており登板数の割に地味で印象が薄かったのではないかというのが私個人の見解です。

         

        岡田のプロ野球選手としてのキャリアのスタートは西武ライオンズでした。あの清原和博と同期入団で同じ高卒組だったこともあり親友関係にあったと言います。1990年にプロ初完封勝利を含む3勝を挙げますが、伸び悩んでいたこともあり1991年オフに松原靖とのトレードで巨人への移籍が決まります。

         

        すると斎藤雅樹にサイドスロー転向を命じたことでも知られる藤田監督から、さっそくサイドスローへの転向を指示されます。サイドスローが板についてきた移籍2年目の1993年、イースタンリーグで41試合に登板して17セーブ、防御率0.94の成績を残します。この好成績を手土産に翌1994年に一軍に定着。強気な投球が身上で、1994年の前半戦は不調の橋本清に代わって勝ち試合のセットアッパーを任されることも多く、この年は自己最多の41試合に登板、4年ぶりの勝利とプロ初セーブもマークします。

         

        岡田の最大の特性といえば、「10球程度の投球練習をすればOK」という肩の出来の早さにありました。そしてそんな岡田の特性を生かす日がやってきます。1994年7月1日のヤクルト戦(神宮球場)。先発はミスター完投こと斎藤雅樹。しかし斎藤は2人目の打者・荒井に投じたこの日6球目が頭部を直撃。この年に決められた危険球ルールにより一発退場となり、プレーボール早々にマウンドを降りることになります。完投が計算できる斎藤が先発の日の初回、当然ながら巨人ブルペンでは誰も準備していません。この緊急時にマウンドに上がったのが、肩の出来の早さに定評のあった岡田でした。

        しかし、岡田は代わりっぱなにいきなり広沢にホームランを浴びて初回に2点を失います。2回、3回も失点を重ねる毎回失点で試合を壊しかけます。「ふざけんなよ」と多くの巨人ファンが思ったことでしょう(私は思いました)。

         
         

        そして岡田のもう1つの特性は、当時の巨人の投手陣の中でも1、2を争う俊足の持ち主ということでした。普通に考えれば投手の足の速さが生かせるような場面というのはそうそうないのですが、1996年8月7日の阪神戦(東京ドーム)は1−1で延長12回までもつれ込みます。12回裏に先頭の杉山直樹がヒットで出塁すると、まだ野手がベンチに残っている状況の中で代走に指名されたのが、投手ながら俊足の持ち主でもある岡田でした。すると代走の岡田は村田真の犠打で二塁まで進み、最後は川相のタイムリーで岡田がサヨナラのホームを駆け抜けます。プロ15年間で岡田に唯一の得点が記録された瞬間でした。

         

        敗戦処理ながらも地味に巨人投手陣の中で地位を築いてきた岡田でしたが、1999年オフに巨人を自由契約になり横浜に移籍します。横浜の入団会見の際に巨人戦へのリベンジを宣言しますが、2000年はわずか8試合の登板の終わり、1年限りで横浜から戦力外通告を受けて引退します。

         

        冒頭にも書いた通り、敗戦処理の役回りが大半ながらも1994年から1998年の5年間は150試合以上に登板しており、第二次長嶋巨人を支えた一人だと思っています。選手の顔と名前を覚えるのが苦手な長嶋監督は、入来祐作と岡田の区別がつかず、入来に対して「岡田、調子はどうだ?」と間違って声をかけていたという事を後に入来が語っていました。


        第1回 高村良嘉

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          当ブログでは、巨人に在籍していたマイナーな選手をゆるく紹介していこうと思います。記念すべき第一回目は1995年〜1998年の4年間巨人プレーした高村良嘉選手です。


          在籍していた新日鉄光野球部の休部に伴い巨人の入団テストを受験。見事に合格し、1994年のドラフトで5位指名されて巨人に入団します。高村の最大の武器は50mを5秒6で走る足の速さでした。


          高村を紹介する前にまずは当時の巨人の時代背景振り返ってみると、1994年、巨人は開幕から首位を独走しながら、打撃陣の不振によりシーズン終盤に大失速。伝説となった10.8の名古屋決戦を制し辛くもリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは西武を倒して5年ぶりの日本一にも輝きますが、長嶋監督はシーズン終盤の失速を反省し、シーズンオフに超大型補強を敢行します。

          打者はFAで広沢、ヤクルトを自由契約になったハウエル、現役ばりばりのメジャーリーグの4番・Sマックを獲得。投手はFAで川口、トレードで阿波野、ドラフトでは六大学癸嬰蠎蠅慮討嗅召高かった河原を獲得し、補強費用の総額は30億円以上とも言われました。


          大砲ぞろいの打線は「5点打線」と呼ばれ1995年の巨人の売りとなりますが、ふたを開けてみると自慢の5点打線はほとんど機能しません。打線が全くつながらず、淡白な試合運びが続き開幕から大きく出遅れた結果、夏場には優勝が絶望的な状況に陥ります。そんな時に白羽の矢が立ったのが足を武器とする新人の高村でした。苦肉なことに、自慢のはずの重量打線が機能しなかったことにより足を武器とする高村にもチャンスが巡ってきたのでした。


          8月に一軍に昇格し同29日から9月16日までの間、13試合連続で「2番セカンド」でスタメン出場。この間、徹底的に叩きつけるバッティングで内野安打を量産し、13試合中は45打数19安打、打率.422のハイアベレージを記録しますが、19安打のうち実に12本もが内野安打でした。叩き付けるバッティングから放たれるボテボテの内野ゴロの間に一塁ベースを走り抜け、間一髪のタイミングで勝ち取る内野安打は高村の代名詞ともなり、大砲ぞろいで全く繋がらない打線に嫌気がさしていた巨人ファンは彗星のごとく現れたスピードスターの活躍に大いに湧きました。東京ドームでは高村の内野安打を放つと、松井のホームランが出た時のように沸いたと言っても過言ではないくらいでした。


          高村がヒーローとなったのが9月7日の横浜戦。6−6で迎えた8回表、2アウトから横浜の盛田がピッチャーの西山を四球で歩かせ、マックのセカンドゴロをローズがエラー。2アウトながら相手からもらった一三塁のチャンスを作り、迎えるバッターは高村。
          すると、高村が叩きつけた打球はホームベース前で大きくバウンド。ピッチャー盛田がボールをグラブに収めた頃には高村は悠々と一塁ベースを駆け抜け、三塁ランナーの西山もホームイン。これが決勝のタイムリー内野安打となりました。


          しかしながら、いいことは続きません。連続スタメン13試合目の9月16日の広島戦(広島)でベースランニング中に足首を捻挫。そのまま戦線離脱し、以降シーズンの残りを棒に振ります。翌1996年は背番号が45から00に昇格しさらなる飛躍が期待され24試合にスタメン出場しますが、思うように自慢の足を生かせずに1年目の頃に見せたセンセーショナルな活躍は影を潜めてしまいます。

          その後左足の手術をしますが手術の結果も思わしくなかったようで、1998年のシーズン限りで戦力外となりひっそりと引退します。
          高村の輝きは、まさに1995年8月29日から9月16日の19日間に凝縮された一瞬のものだったということが言えるでしょう。「ケガなくレギュラーで試合に出場し続けるのは難しい」ということをファンも改めて知らされたのでした。

          俊足の割に盗塁があまりうまくありませんでしたが、単純に走るだけであれば鈴木尚広よりも速かったのではないかと思います。

           

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