スポンサーサイト

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    • 2017.01.17 Tuesday
    • -
    • -
    • -
    • -
    • by スポンサードリンク

    山本功児の二軍成績

    0
      まだ64歳。早すぎる。
      1975年、ドラフト5位で巨人に入団。本職の一塁には王貞治がいたため外野も掛け持つ。
      死去のニュースを聞いて山本の二軍での成績を調べてみたが、意外なことが分かった。


      yamamotokoji

      ドラフト下位入団の選手で、本職の一塁には王貞治がいながら、巨人時代に二軍の試合に出場したのは1試合限り。
      ロッテ時代の1984年〜1988年は1試合の出場もない。13年間の現役生活で二軍の試合に出場したのはわずかに1試合のみだった。


      ドラフト制度開始以降、巨人では高田繁、原辰徳の2人が生涯二軍戦に出場経験がないまま現役を引退したが、山本功児もその可能性があった。高田、原はバリバリの主力選手だったのに対して、山本はロッテ移籍以降にレギュラーポジションを掴むが巨人時代は準レギュラーの控え選手。一軍のレギュラーではないにも関わらず、二軍経験皆無(1試合だけあるが)の極めて珍しい現役生活だった。

       

      ライト中畑清

      0
        2004年に発売された「The official baseball encyclopedia 日本プロ野球記録大百科」には投手、打者の詳細記録のほか、ポジション別の試合出場数が載っている(その後、改訂版が発売されないのは残念だ)。


        この分厚い記録集を眺めていると意外な発見がある。
        その一つが、特定のポジションのイメージが強い選手が思わぬポジションを守っていたことだ。
        例えば、王貞治は生涯で2試合だけ外野での出場経験があり、長嶋茂雄も若い頃に遊撃で18試合、外野で1試合に出場している。
        個人的に気になったのが中畑清。一塁で879試合、三塁で346試合に出場している他、二塁、遊撃、外野で各1試合に出場している。
        ファースト、サード以外を守る中畑のイメージが沸かない。

        気になったので、個人的に二軍でのポジション別の試合出場数も調べてみた。



        中畑のイースタンリーグでの守備別出場数

        守備位置はファースト、サードのイメージしかない中畑だが、新人時代は二軍でショートでも出場。二軍では内野の全ポジションをコンプリートしている。

        外野手としての出場は1977年に1試合あるのみ。7月5日の日本ハム戦(日本ハム多摩川)に「三番センター」で出場している(試合途中からサードへ)。この試合、外野手の猪口明宏がファースト、普段はファーストを守る伊原春樹がサードで出場している。普通に考えれば、ファースト・伊原、サード・中畑、センター・猪口だろうが、いつもと違う守備位置には何らかの意図があったのだろう。中畑が二軍で外野手として出場したのはこの1試合だけ。


        では、一軍の試合で外野を守ったシチュエーションはどうだったのか。

        中畑が一軍で外野を守った唯一の試合は1984年9月30日の大洋戦。
        この試合は後楽園球場のシーズン最終試合。この年、巨人は3位に終わるが、観客動員数は297.4万人の新記録を達成した。
        優勝の可能性がなくなった消化試合でも多くのファンが球場に足を運んでくれることに感謝の気持ちを込めて、「選手を代表してライトスタンドのお客さんにお礼を」と王監督は考え、最終回の9回表にライト・中畑が実現した(守備機会なし)。
        当然、ライトスタンドの巨人ファンは沸きに沸いた。


        中畑がDeNAの監督だった2013年、この年限りで退団することが決まったラミレスを最終戦でライトで起用しようとしたのは記憶に新しい(ラミレスが固辞したため実現しなかった)。もしかしたら、自身が現役時代の経験に基づいての発案だったのかもしれない。

        三軍の歴史−下−

        0
          1980年代、NPBの支配下登録選手の上限は60名までと決められていたが、西武の管理部長・根本陸夫は1チーム90名がベストな人数だと考えていた。

          この当時は支配下外の練習生が黙認されており、西武は練習生をうまく活用していた。有望なアマチュア選手が他球団と接触しないように練習生として囲い込む一方、一芸に秀でた者も練習生として登用しており、学生時代は野球未経験ながら、やり投げ出身で鉄砲肩を武器としていた日月鉄二のような異色の選手も練習生として在籍した。

          また、一軍でプレーするには時期尚早ながらも将来が期待される若手選手を任意引退の扱いとし、マイナーリーグに野球留学をさせて実戦経験を積ませていた。


          しかし西武球団内で野球留学の成果に対して疑問の声が上がりはじめ、長年続いた野球留学は1988年限りで廃止された。
          そのため1989年からは支配下外の選手は西武第二球場で練習をしたが、支配下外の練習生たちはビジター用のブルーのユニフォームを着用し、日野茂コーチが責任者として面倒を見た。白いホーム用のユニフォームを着た二軍とは一線を画しており、ビジターのブルーのユニフォームを着た選手たちが実質的には三軍として扱われた。


          一方、資金力豊富な巨人も多くの選手を抱えていた。そして藤田元司監督はファーム制度の充実を提唱していた。
          二軍には限りなく一軍に近い選手もいれば、基礎体力作り優先で試合に出る段階ではない選手もおり、選手個々の実力差も大きなものがあった。そのため、練習についていけない選手も出てきており、特に「未熟で育成段階にある新人選手を二軍の中に置いておくのは無理がある」と藤田は考えていた。また、故障者がリハビリに専念できるような環境を整えたい意向も持っていた。

          こういった背景もあり、巨人は1990年から「基礎体力作りが必要な若手選手(主に新人)」「ケガからのリハビリ組」で編成する三軍を新設することになり、初代三軍監督には木戸美摸、三軍コーチには関本四十四、河埜和正、樋沢良信、宇都博之が就任した。さらに、1990年のシーズン途中の7月に現役を引退した津末英明も三軍コーチ陣に加わっている。
          巨人三軍はドラフト外で入団した練習生たちで構成され、主に多摩川グラウンドで基礎訓練を課された。登板日漏えい問題で出場停止処分を受けていた桑田真澄や、開幕早々にわき腹痛で登録抹消された原辰徳も一時、三軍で調整をしている。


          巨人が三軍を新設した1990年5月11日、西武と大洋の支配下外の選手たちで練習試合が組まれれるが、この試合が球界初の三軍戦と言われた。

          1990年5月11日 西武第二球場
          大洋三軍 000 000 000 = 1
          西武三軍 201 010 14X = 9
          (大)松村、本間、知野、塩崎−名幸、榊原
          (西)鈴木哲、加世田、逢坂、広瀬−垣内
          本:野々垣、垣内


          日本ハムや巨人も三軍戦に意欲を見せたため三軍制も発展していくかに思われたが、1990年限りでドラフトを経由せずに選手を獲得することが禁止された。また、これまでは黙認され続けてきた練習生も1991年を最後に廃止された。
          さらに1992年から支配下選手数の上限は60名から70名に拡充されたため、三軍制にする意味が薄れたこともあり、巨人三軍は創設からわずか2年限りで廃止された。


          巨人よりも早く1989年から実質的な三軍制を採用していた西武は、1992年に正式に三軍を新設するが、この年のオフに廃止された。

          三軍の歴史−中−

          0
            1967年8月25日、近鉄三軍創設に向けて日生球場で行われた第一次テストには98人が参加した。

            ダイヤの原石を発掘すべく、第一次テストには一軍、二軍の全首脳陣と球団職員が総出したが、首脳陣は一様に顔を曇らせた。集まったのはキャッチボールもろくにできないような素人が大半。取材に来ていた記者たちからは失笑が漏れるほどで、3年先に大成しそうな逸材はとても見当たらなかったのだ。
             
            それでも三軍構想を大々的に発表してしまったため、後に引くことはできなかった。
            とりあえずは「体力と根性がありそう」な受験者に的を絞り、結果24人が第一次テストを通過した。
             
            24名は翌26日から31日まで藤井寺球場に合宿し、第二次テストを受けた。
            しかし第一次テストの時点で目ぼしい逸材がいないのは分かっており、半ば強引に第一次テストを通過させたにすぎない24名。
            当初は三軍創設のために10名前後の獲得を目指したが、最終的にこの中から合格したのは4名だった。
             
            テストに合格した近藤義之(投手)、釜野照義(投手)、東新昇(投手)、原野一博(内野)の4名に、2年目の金城晃世(息子は巨人三軍コーチの金城龍彦)を加えた5名が三軍として位置づけられたが、この中で注目されたのが近藤義之だった。


            近藤は1953年1月1日生まれ。すなわち、近鉄の就職試験(入団テスト)受験時は14歳だったことになる。
            神奈川県川崎市在住の中学3年生だった近藤は、身長175?の体格(当時は大柄な部類だった)と左腕ということを買われ、近鉄の就職試験に合格。中学を卒業と同時に近鉄に入団、弱冠15歳だった。


            近藤の日課は、昼は練習に時間を費やし夜は大阪の定時制の高校に通った。1月生まれだった近藤は、1968年のシーズン始まってから終了まで15歳で過ごしている。中卒、15歳でプロ入りした選手は過去に何人かいるが、他はシーズン中に16歳の誕生日を迎えており、シーズン通して15歳だったのは日本球界の歴史の中でも近藤が唯一ではないかと思う。
             
            とりあえずは5名でスタートした近鉄の三軍だったが、1967年のオフに監督に就任した三原脩は三軍には否定的だった。三軍の考え方そのものは素晴らしいが、日本球界は二軍の環境ですらじゅうぶんに整っておらず、現時点では時期尚早とみていたので。

            そんな事情もあり、近鉄の三軍がこれ以上に発展することはなかった。金城は1968年限り、釜野、東新は1969年限りで引退し、原野は1970年シーズン途中に退団した。唯一近藤だけは残ったが、支配下登録されることはなかったためウエスタンリーグの試合にすら出場することもできず、1972年、南海に移籍した。
             
            結局、誰一人芽が出ることないまま近鉄から去る結果となり、近鉄が目指した三軍構想はあっさりと終焉した。

            三軍の歴史−上−

            0
              前回の記事で今年から創設された巨人三軍の3月までの足跡を書いてみたが、現在、日本球界ではソフトバンク、巨人、広島の3球団が三軍制を採用している。しかし、広島については三軍はケガ人のリハビリの場という位置づけなので、選手の育成を目的とし、チーム単位で対外試合を行っているのはソフトバンク、巨人の2球団のみ。

              以前、当ブログでは三軍の歴史を紹介したことがあるが、追加調査によって新たに分かったこともあるので、改めて三軍の歴史についてを書いてみたいと思う。


              日本球界で最初に三軍制度に目を付けたのは近鉄バファローズだった。
              1967年、かつて近鉄の監督を歴任したこともある芥田武夫が近鉄の球団社長に就任するが、芥田はスカウト活動に年間2,000万円もの経費を費やしていることに疑問を感じていた。

               
              ・1965年にドラフト制度が始まったため、目を付けていた選手が入団するとも限らない。
              ・有望選手に関しては自然に情報も入ってくるので、ドラフトで交渉権さえ獲得できれば選手の入団にこぎつけられる。
              ・スカウト制度そのものが無意味なのではないか

               
              こんな考えから、近鉄はスカウト制度を廃止した。
              当時、メジャーリーグでは各球団アマチュア選手に関する情報を幅広く得るために、新人選手入団につながる有力な情報を提供してくれた人に対して謝礼を支払う制度があった。スカウト制度を廃止した近鉄はこれを参考に、芥田が朝日新聞社に勤務していた頃の伝を頼りに、仙台、東京、名古屋、中国、九州に情報提供者を置き、そこからの情報を元に新人選手を獲得することを試みた。
               
              さらに、当時の監督(選手兼任)・小玉明利が芥田自身が監督だった時にテストを経て入団したことにも着目し、日本中を探せば今は無名でも将来的に大選手になり得るようなダイヤの原石が眠っているのではないかと考えた。
                
              「ダイヤの原石を探し、一から野球を教え込んで育成すればお金がかからない。」
              3年先の戦力を養成するのを目的に、「どうしてもプロ野球でやりたいという強い意志と素質のある若者」に狙いを定め、三軍制を採用することを決め、1967年7月24日に発表した。

               
              そして近鉄は三軍構想を実現させるべく、1967年8月25日に日生球場で就職試験を行った。
              入団テストではなく就職試験と銘打ったのは高校生がプロアマ規定に抵触しないようにするためで、在学中の志望者には学校からの推薦状を持参させ、合格者は翌1968年4月に近鉄球団へ職員の扱いで入社することが予定された。


              PR

              calendar

              S M T W T F S
               123456
              78910111213
              14151617181920
              21222324252627
              28293031   
              << May 2017 >>

              野球ブログ瓦版!

              ゆるすぽweb

              selected entries

              categories

              archives

              recent comment

              • 三軍の歴史−下−
                名無し
              • ルーキーイヤーの松井秀喜の二軍成績
              • ライト中畑清
                管理人
              • ライト中畑清
                XLIV
              • 金城龍彦の父のプロ野球選手時代
                マニア
              • 山崎福也の父は二軍の強打者だった
                れみちち
              • 巨人軍多摩川グラウンド跡地を訪ねて
                管理人
              • 巨人軍多摩川グラウンド跡地を訪ねて
                管理人
              • 巨人軍多摩川グラウンド跡地を訪ねて
                たか
              • 吹石徳一の二軍成績
                イレブン

              links

              profile

              search this site.

              others

              mobile

              qrcode

              powered

              無料ブログ作成サービス JUGEM