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    • 2017.01.17 Tuesday
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    岡本和真のホームランによって出てきた名前

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      先週土曜日のDeNA対巨人戦で、巨人の岡本和真がプロ入り初ヒットを初ホームランで飾った。巨人の高卒新人野手で初ヒットがホームランだったのは、王貞治、林千代作に続き2人目。


      一つの記録が生まれることによって、前に記録を達成した選手の名前が再びあがる。
      王貞治についてはいまさら言うまでもないが、林千代作という名前が世に出てきたのはかなり久しぶりなのではないだろうか。

      高卒新人にしてプロ入り初ヒットが初ホームランだった事以外はこれといった活躍がなく全くの無名だった林千代作がどんな選手だったのかを紹介したい。


      林はドラフト初年度の1965年、2位指名されて巨人に入団。この時の1位は堀内恒夫だった。高校3年の春に行われた甲府商業高校との練習試合で堀内からホームランを放っており、この時の打撃が巨人スカウトの目に留まったと言われている。


      左投左打でパワーがけた外れだったことから、入団時は王二世とも呼ばれ期待を集めた。1年目の1966年、ドジャースから入団したマイヤーズ二軍打撃コーチに師事し、イースタンリーグでホームランこそ1本だったが3割近い打率を残している。


      9月に一軍に昇格。同27日の大洋戦、大洋の先発はスタンカ。巨人打線はスタンカの前に沈黙するが、「林は外国人のコーチに教わっているんだから、外国人の投手にも強いのではないか」と無茶苦茶な理由で代打で起用される。結果は三振だったがそのままライトの守備につき、8回表に回ってきたこの日2回目の打席でホームランを放った。

      このホームランこそ、巨人の歴史の中で先日の岡本和真まで49年間誰も成し遂げられなかった高卒新人野手のプロ入り初ヒット初ホームランだった。


      しかし、林が放ったホームランは生涯でこの1本のみ。1969年まで四年間巨人に在籍したが、二軍でも目立った成績は残せなかった。巨人退団の翌年、新人時代に教わったマイヤーズコーチを頼って単身渡米。ここで本場の野球を見て学び、帰国後にトレーニングを積んで秋に中日の入団テストにのぞんだが入団には至らなかった。


      林千代作の生涯成績(※1966年のイースタンリーグ盗塁数は不明】



      林の1年目は二軍でホームランは1本。一軍昇格後2試合目、3打席目にしてホームランを放っている。岡本は3試合目、3打席目なのでペース的にはかなり似ている。
      しかし、林はこの生涯この1本のホームランでで終わってしまった。岡本にはこの1本で終わることなくホームランを量産してもらいたい。

      上田利治コーチの二軍戦出場記録

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        監督として阪急の黄金時代を築いた上田利治。関西大学時代は村山実とバッテリーを組み1959年に広島に入団。肩を故障したため選手としては3年で見切りをつけるが、球団は上田の指導者としての資質を見抜き、1962年からは25歳の若さで広島の二軍コーチに抜擢されている。


        25歳で専任コーチに就任するのは日本プロ野球史上最年少だったと言われるが、実は1962年の上田利治は現役の選手としても球団に籍を残していた。とは言え選手としては廃業状態で専らコーチ業に専念していたが、6月6日のウエスタンリーグ近鉄戦のダブルヘッダーの第2戦目に「二番一塁」でスタメン出場している。


        前年の1961年、深刻な選手不足に悩む国鉄が林田章三二軍コーチをシーズン中に現役復帰させ、イースタンリーグの試合に出場させて選手不足の穴埋めをするケースはあったが、上田コーチの場合は選手不足の穴埋めではなかった。
        普段なら試合中は一塁コーチャーズボックスに立っていたが、「コーチャーズボックスに立っているよりも、若手の中にとけこんだ方がナインをひっぱっていく上での効果がある」という上田コーチ自らの考えによる試合出場だった。


        すると上田コーチは、1回裏の第一打席でさっそくヒットを打つと、2回裏の第2打席では二点タイムリーヒット。コーチとして最初の試合出場で二打席連続ヒットとハッスルした。


        1962年の上田利治の二軍戦成績
        ueda


        コーチ自らが試合に出場することによって選手を引っ張っていく効果があったかどうかは定かではないが、1962年、上田利治はウエスタンリーグで5試合に出場。3試合で2安打以上を記録している。7月12日以降は出場機会はなくコーチ業に専念した。


        野球史の中では「1961年限りで現役を引退して、1962年からは史上最年少で専任コーチに就任した」とされているが、一軍での実働こそなかったが、本当の現役引退は1962年だったと言えるだろう。

         

        20年前の巨人二軍は興行として成立していた

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          1994年の調べものをしていたところ、この年のイースタンリーグの観客動員数を見つけた。
          1球団100試合、主催試合はその半分の50試合。


          1994


          当時は実数発表ではなくどんぶり勘定だったので単純にこの数字を信じることはできないが、驚くことに巨人二軍は1試合あたり約5,000人の観客を動員していた。

          巨人の主催試合の内訳は、ジャイアンツ球場が16試合、東京ドームが5試合。遠方・近場はあるにせよ残りの29試合は遠征をしている。7月29日から8月7日まで西武と帯同で北海道へ遠征。この間の移動は全てバス。移動総距離は約2000キロ。5月に開場したばありの札幌オーシャン球場のこけら落とし試合には13,000人のファンが詰めかける熱狂ぶりだった。

          ほとんど観客の入らないジャイアンツ球場を含めての観客総数ということを考えれば、地方では平均以上に客を集めており二軍の試合が興行として立派に役目を果たしていたことが分かる。


          せっかくなので1994年から21年後にあたるの2015年の昨日までのイースタンリーグ主催試合の観客動員数もまとめてみた。

          2015

          巨人が断トツに多いが20年前に比べたら客数は半数以下に激減していることが分かる。1994年は地方開催の主催試合が29試合あったが、近年は地方への遠征もめっきりと減り、今年はわずかに8試合。地方での試合が減ったのがそのまま観客減にもつながっている。
          巨人は今年からG2プロジェクトなるものを立ち上げで二軍の改革を図っているが、たしかG2プロジェクトでは二軍戦の地方開催も唄っていたはず。

          巨人は本気で二軍の改革に取り組むのであれば、原点回帰で昔のように興行を意識して週末はもっと地方へ出てもいいのではないか。試合後に地元の小学生に野球教室などを開催すればファンサービスにもつながる。


          そしてロッテ、ヤクルト、西武の二軍戦は1試合あたりの観客が1,000人を切っている。
          ヤクルトの戸田球場の試合は一部の席は有料だが、土手からならタダ見が可能。ロッテ、西武に至っては無料。
          「二軍の試合なので見たい方はご自由にどうぞ」ということだろうが、二軍と言えどプロ野球。今の球場の環境下でお金を取るのは難しいかもしれないが、そろそろ考える必要があると思う。
           

          空前絶後の大接戦だった1961年のイースタンリーグ

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            徐々にAクラスとBクラスの差がつき、Aクラスの中でも阪神が頭ひとつ抜けつつあるが、今年はセリーグが稀に見る混戦となっている。オールスター前までは首位から最下位までが4.0ゲーム差の中にひしめき合っていた。

            しかし、過去には二軍でこれを上回る超大混戦のシーズンがあった。


            1961年、イースタンリーグは1955年以来6年ぶりに再開した。1955年は毎日、大映、トンボ、東映、大洋、国鉄、巨人の七球団が加盟し、この年は一球団4試合の総当り戦で24試合が行われたが、1955年のイースタンリーグの記録はほとんど残っていないとされ(実際は残っているが)、ベースボールレコードブック等では実質的に1961年がイースタンリーグ最初の年として扱われている。


            1956年からイースタンリーグは休止され、この間に高橋(トンボ)の解散、毎日と大映の合併により球団数は減り、1961年に再開したときは大毎、東映、大洋、国鉄、巨人の五球団でリーグ戦が行われた。
            3月25日に開幕し一球団14試合総当りの56試合(引き分けは再試合)が行われたが、10月13日終了の時点での順位は以下の通りだった。




            全球団の残り試合が5試合を切ったところで。1位から4位までのゲーム差がわずか1。
            10月16日が最終戦だったが、最終戦を3日前にして国鉄以外の四球団に優勝の可能性があった。


            【10月14日】
            巨人8−6大毎、巨人7−6大毎
            国鉄4−3大洋、東映5−3大洋

            残り2試合の巨人が大毎とのダブルヘッダーに連勝。29勝27敗で全日程を終了した。一方、大毎は連敗で26勝27敗。
            残り3試合に3連勝しなければ29勝の巨人には追いつけなくなった。

            大洋は国鉄、東映との変則ダブルヘッダーに痛恨の連敗。28勝28敗で全日程を終了し優勝の可能性がなくなった。13日時点で大洋と並んで首位タイの東映は29勝26敗。16日の大毎戦に勝てば単独優勝が決まる。


            【10月15日】
            大毎2−1国鉄、大毎1−4国鉄

            大毎は前日14日に続くダブルヘッダー。残り3試合全勝以外に優勝の可能性がないが崖っぷちの状況だった。1試合目は菅原紀元が1失点完投勝利で首の皮1枚つながるが、2試合目に敗れてジ・エンド。七回日没コールドゲームとなったが、レフト戦への際どい打球のフェア、ファウルを巡る抗議で試合が40分中断したのが響いた。これで大毎は優勝の可能性が亡くなった。


            【10月16日】
            大毎4−3東映

            東映が勝てば30勝で文句なく優勝が決まる一戦。応援で一軍選手を送り込んだ。大毎も対抗して一軍選手を多数出場させるが、四回に3得点した大毎が逃げ切った。勝てば単独優勝だった東映は29勝27敗で巨人と勝率、勝ち数ともに並んだ。


            1961年イースタンリーグの最終成績



            東映と巨人が29勝27敗で並んだが、イースタンリーグ幹事会で「イースタンリーグは勝敗にこだわらず個々の選手の素質を伸ばすことにある」ということを根拠に、優勝決定戦は行わずに両チームが同率で優勝ということに決まった。
            最下位の国鉄は選手不足によりシーズン途中に林田章三コーチが急きょ現役復帰する苦しい台所事情だったが、1位とは3ゲーム差だったということを考えれば大健闘だったと言えるだろう。


            1位から最下位までがこれだけの大混戦だったシーズンは他にはない。


             

            スクラップ帳を作成中

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              定期的に国会図書館に通い続けていたら、気が付けば複写した新聞記事や雑誌の紙の量がすごいことになってきた。
              「そういえばあの記事どこだっけかな?」と、せっかく調べたことも探すのに一苦労。


              「これじゃいかん」ということで、先週の夏休み期間中に思い立って本格的に資料のスクラップを始めてみた。


              記事を年、月ごとに並び替え、必要な個所をハサミで切っては糊で貼っての単純作業の繰り返し。これが思いのほか大変。そしてついつい記事に見入ってしまうもんだから作業効率もなかなか上がらず、夏休み終わってからも、会社から家に帰ってから寝るまでの数時間をスクラップ作業に費やす日々を送っている。おかげで寝不足状態が続いている。






              完全にオタクの世界だが、1年分をスクラップし終えるとものすごい達成感をおぼえる。
              スクラップ帳を作っていると、昔の野球に関する記録というのはまとまった情報が少なく、個人で少ない情報を集めて調べるのは大変なんだな〜と改めて感じる。そして、埋もれてしまい誰も知ることのない野球史もまだまだあるということを実感する。


              1年分をまとめるのですら大変だが、手つかずでクリアファイルに突っ込んであるだけの資料は10数年分ある。
              ブログの更新が滞ってしまうのは不本意だが、スクラップ帳作成で寝不足の日々はまだまだ続きそうだ。

               

              史上最強の代打男は元祖二軍の帝王だった

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                NPBの代打本塁打記録1位は高井保弘の26本。2位の大島康徳と町田公二郎が20本なので断トツの1位だ。
                高井が放った生涯130本の本塁打については、たばともさんが「高井保弘、全本塁打一覧」で紹介されている。


                高井は3年目の1966年あたりから二軍で頭角を現す。二軍では2年連続で打率3割を大きく超えている。
                1968年、1970年には二軍で本塁打王、打点王の二冠を獲得。
                しかし、一軍定着には不得意の守備がネックとなる。外野手としてはズンドコで、一塁にはスペンサーがいた。そのため一軍に上がっても出番は代打に限定された。1971年までに一軍で6本塁打を放つが、4本が代打としてだった。


                この間、二軍ではとにかく打ちまくった。この頃、ウエスタンリーグは1967年までは年間48試合、1968年以降は年間60試合と今よりもはるかに少ない試合数だったが、高井は二軍通算で71本もの本塁打を打っている。


                1974年は1シーズンで代打本塁打6本。
                「代打男の高井が1試合4打席立ったら、年間で相当打つのではないか」こんな論調に後押しされて、パリーグは1975年から指名打者制度を導入したと言われている。


                1972年以降は一軍に定着したため二軍での試合出場の機会はほとんどなかったが、試合数が少なく、試合球が一軍の試合で使わなくなった球のお古で今よりもはるかに球が飛ばなかったということを考えれば、高井の二軍通算360試合で71本塁打というのはすごい記録だと思う。


                一軍、二軍を合計したNPB通算本塁打数は201本だった。


                 

                不運のドラ1、谷口功一

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                  イチローが鈴木一朗だった頃の1992年。鈴木一朗は新人ながらウエスタンリーグで首位打者のタイトルを獲得し、二軍の新人王にあたるビッグ・ホープ賞を受賞しているが、イースタンリーグでビッグ・ホープ賞を受賞した選手こそが、イチローと同じ1991年入団組の巨人のドラフト1位・谷口功一だった。イチローの事を書いたら、谷口の事も書かずにはいられない。


                  谷口は若田部健一のハズレ指名ながら、当時は野球ファンだけではなく世間からも注目される栄光の巨人軍のドラフト1位。190僂鯆兇┐訥洪箸如▲好肇譟璽箸裡唯腺悗錬隠苅献ロ。誰もがその将来を嘱望した。高卒の投手だったこともあり1年目の1992年は主に体力強化の期間に充て、イースタンリーグで14試合に登板して4勝2セーブ防御率3.24だった。


                  1年目の1992年オフにミスタープロ野球・長嶋茂雄が監督に復帰。空前の長嶋フィーバーが巻き起こったが、その長嶋の口から期待の若手として度々名前が挙がったのが谷口だった。

                  長嶋の監督復帰後初の対外試合となった1992年10月30日の全米戦(日米野球)では、タイガースのフィルダーにホームランを浴びるが、全米のトム・ケリー監督から印象に残った巨人の選手として谷口の名前が挙げられている。リップサービスもあるだろうが、谷口はメジャーの監督からも一目置かれる注目株だったのだ。


                  1993年、春季キャンプで一軍に抜擢されると、一軍の投手10人枠を巡ってオープン戦の最後まで一軍に帯同し続けた。しかし首脳陣の谷口の評価は投手の中では11番目から12番目。「一軍で敗戦処理で起用するよりも、将来のローテーション投手としてファームで先発の経験をさせたい」との判断から、最後の最後で二軍スタートが決まった。


                  開幕こそ一軍からは漏れたが、谷口に対する首脳陣の期待の大きさが変わることはなく、「一軍の空気に触れさせながら技術や精神面を学ばせるため」に、一軍が関東にいる時は一軍の練習に参加させ、一軍が遠征時に二軍戦で登板させる通常の育成方法とは異なる特別な英才教育を施す方針が決まった。この特異な調整方法はプロの世界で何の実績もない2年目の若手選手には難しいことであったろうというのは想像に難くない。


                  しかし、チャンスはすぐに訪れた。5月8日のヤクルト戦で先発の槙原が3回4失点でKO。槙原は開幕から5試合勝ちがなく、試合後に気分転換を兼ねて二軍行きが命じられた。槙原に代わって一軍に呼ばれたのが谷口だった。


                  谷口は一軍登録された当日の5月9日のヤクルト戦(神宮)でさっそくプロ初登板。8回裏、5点リードされた場面のいわゆる敗戦処理。
                  「一軍で敗戦処理をさせるくらいなら二軍で経験を積ませる」こんな理由で開幕一軍入りさせなかったのに、先発投手の槙原に代わって一軍に上がってきていきなり敗戦処理で登板させるところに、巨人首脳陣が掲げる育成方針の一貫性のなさと矛盾を感じずにいられないが・・・


                  プロ初登板で谷口は池山にホームランを浴びるなど2失点と精細を欠いた。期待をしていたファンの失望も大きかったが、実はこの結果には致し方ない面もあった。
                  なぜなら谷口は、前日の5月8日の二軍戦に先発して6イニングを投げていた。球数は不明だが、6イニングを投げているのでおそらく100球近くを投げていただろう。二軍で先発した翌日に一軍に昇格し、中0日でいきなり登板を命じられたのだ。いくら若いと言っても、さすがにこの起用には無理があったと思う。

                  谷口は結局一軍で3試合、4イニングを投げて4失点ですぐに二軍にUターンした。この無理な登板が祟ってか、間もなく谷口は肩を痛めてしまう。それでも、二軍では中3日での先発を2度も経験している。


                  1993年の谷口の全登板(赤枠は一軍)


                  肩を痛めてからはフォームを崩してしまい、二軍戦でも度々打ち込まれている。
                  翌1994年以降は、就任当時は熱心だった長嶋監督からもすっかり飽きられてしまい、かつてのドラ1は完全に忘れ去られた存在となってしまった。

                  その後、1997年に柏田貴史とともにメッツの春季キャンプに参加するが、柏田がそのままメッツに入団しメジャーリーガーになったのに対して、谷口は寂しく帰国。さらに同年オフには巨人を戦力外となり退団した。


                  巨人を戦力外後に西武、近鉄、アメリカの独立リーグでも投げたが鳴かず飛ばずだった。
                  入団当時は期待の大型右腕だったが、期待されたがゆえに施された英才教育、一軍昇格後の支離滅裂な登板でその後の野球人生が狂ってしまったのではないかと思わずにはいられない。素材はピカ一だっただけに、「育成が下手な巨人」を露呈する結果となってしまった。


                  谷口の巨人時代の二軍成績

                   

                  名わき役だった中井康之

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                    今日8月9日は、1980年代初期に活躍した元巨人・中井康之の一周忌の日。


                    中井は1972年ドラフト1位で巨人に入団。入団時は投手だった。
                    1年目の1973年は二軍でも登板なし。翌1974年5月11日に二軍戦初登板。


                    1976年は二軍で2完投しているがいずれも完封。ようやく投手として頭角を現し始めたかに思われた。しかし肩の故障もあって1977年の夏場に外野手にコンバート。投手としては一軍で登板機会はなく、二軍では通算9勝9敗だった。


                    中井康之の二軍投手成績
                    nakai1


                    野手にコンバートされた1977年はイースタンリーグで、一塁手で4試合、外野手として3試合に出場している。
                    実質的な野手1年目の1978年、いきなり二軍で首位打者、打点王のタイトルを獲得。さらに20盗塁を記録し、足でもアピールした。


                    中井康之の二軍打撃成績
                    中井康之


                    翌1979年に7年目にして初めて一軍に昇格し、守備・走塁要員として重宝されて一軍に定着。しかしレギュラーの壁は厚く、その後も控えに甘んじた。


                    同時期に在籍していた中井と同タイプの外野手の庄司智久も巨人では守備代走要員にすぎなかったが、ロッテに移籍後にレギュラーに定着している。中井も他球団に移籍していればチャンスはあったかもしれない。ドラフト1位だったことが邪魔して他球団に出してもらえなかったのではないだろうか。


                    1984年に現役を引退。引退後は飲食店を経営していたことはよく知られているが、当時の月刊ジャイアンツの記事には飲食店とともに麻雀荘を経営することも紹介されていた。



                    ウエスタンリーグのワースト記録更新

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                      前回の記事でイースタンリーグにおける1試合の自責点ワースト記録に関して書いたところ、偶然にも昨日8月5日に行われたウエスタンリーグのソフトバンク対広島戦で、広島先発の今井啓介が自責点16を喫し、ウエスタンリーグにおける1試合の自責点ワースト記録を更新した。


                      スコア


                      一軍でも投げている今井がこの記録を作ったことに驚いたが、今井がワースト記録を更新する前までの不名誉な記録の保持者は、近鉄・前川勝彦だった。
                      前川は2003年7月21日、阪神戦(藤井寺球場)に先発した。5回までは3失点と試合を作ったが、6回に5失点、7回に6失点。8回を投げて阪神打線に被安打17を浴び、最終的には15失点(15自責点)と炎上した。なお、この試合ではカツノリ一人に4安打を打たれている。

                      前川は2000年に一軍のオリックス戦で10失点(自責点は5)完投したことがある。すなわち、一軍でも二軍でも先発して10失点していることになる。


                      2003年7月21日 藤井寺球場
                      阪神 020 105 610 = 15
                      近鉄 020 200 010 =  5


                      そして、1試合で自責点14の投手は2人いる。
                      2002年5月22日。サーパス神戸対近鉄戦(北神戸)で、サーパス先発の山本は、3回に近鉄打線に捕まり一挙11点を献上。この回でマウンドを降りるが、3回を投げて自責点は14だった。


                      もう一人は中日の奥田和夫。1974年8月23日の近鉄戦(中日)に先発。奥田は2回、6回、7回を除いて毎回失点。8回までは9失点だったが、9回に打者一巡の猛攻を受けて6点を失う。結局奥田は9回を最後まで投げ切るが、打者50人に対して被安打20の15失点。自責点は14だった。二軍とは言え1試合で15失点しながら完投するような投手は、今後二度と現れないのではないか。


                      1974年8月23日 中日球場
                      近鉄 302 110 026 = 15
                      中日 000 003 001 =  4


                       

                      1試合で18失点した投手

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                        1970年にドラフト6位で東映フライヤーズに入団した日高晶彦。
                        一年目の1971年5月18日に登板したイースタンリーグの巨人戦である記録を作っている。


                        日高の初登板は4月18日のイースタンリーグ開幕のロッテ戦。この試合は二番手で登板、一回を投げて4失点だった。
                        3試合目の登板が暴投の5月18日の巨人戦だったが、自身にとって初先発のマウンド。

                        初回こそ日高は巨人打線を無失点に抑えたが、二回に1失点、三回に3失点、四回に7失点。四回を投げ終わった時点で11失点と炎上した。それでも東映の杉山二軍監督はなおも日高を続投させた。


                        しかし、日高は立ち直ることができずに五回にも1失点、六回は1死しか取れずに6失点。巨人打線相手に18安打のつるべ打ちにあい、失点18、自責点16と大炎上した。これは二軍における1試合の最多失点、最多自責点の不名誉な記録として今もなお残る。


                        1971年5月18日 茅ヶ崎市営
                        東映 000 000 000 = 1
                        巨人 013 716 30X = 21
                        ○松原−杉山
                        ●日高、塩谷−荒船

                            回数 安打 三振 四球 失点 自責  
                        日高  5.1  18  4  4  18  16

                         


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