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    • 2017.01.17 Tuesday
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    ルーキーイヤーの松井秀喜の二軍成績

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      松井秀喜の1993年の二軍の成績のリクエストをいただいた。
      松井が日米で残した偉大な記録の数々については今さら言うまでもないが、プロ入り1年目の二軍の詳細な成績は意外に知られていないような気がする。


      松井の新人時代の1993年のオープン戦、開幕直後の二軍での成績、一軍昇格後、二軍降格後、一軍再昇格後の記録を一覧にすると、1年の中で松井の成長の足跡が手に取るように分かる。今回は二軍の成績に特化して紹介する。


      オープン戦21試合のうち19試合に出場するが、53打数5安打で打率.094、本塁打0と結果を出せず、さすがに開幕は二軍スタート。「一打席でも多く経験させたい」長嶋監督の意向で、二軍戦では一番で起用されることが決まる。


      松井の4月の二軍での成績。右の名前はホームランを打った投手
      4月

      イースタンリーグ開幕の4月10日。年齢は違うが松井と同じく新人の伊藤智仁から先頭打者本塁打を放つ。松井にとって正真正銘のプロ第一号の相手投手はあの伊藤智仁だった。

      二軍戦12試合に出場して無安打は2試合のみ。オープン戦でのうっぷんを晴らすかのように打ちまくった。
      四月が終わった時点で一軍のチーム打率は.197と2割にすら満たない極度の貧打だったこともあり、5月1日に一軍に昇格した。


      続いては5月と6月。


      5月1日に一軍に昇格し、同日のヤクルト戦に「七番レフト」で初スタメン出場。五回裏に西村からプロ入り初ヒットとなる二塁打、翌日には高津から九回裏にプロ入り初本塁打を放つ。

      しばらくは一軍に帯同していたため当然その間は二軍戦での出場機会はほとんどない。一軍が東京ドームのナイター試合で、同日にジャイアンツ球場で二軍戦がある日に、昼はイースタン、夜は一軍のナイターの親子ゲームも経験する。

      プロ入り初本塁打以降は33打数1安打とプロの壁にぶつかり、6月20日の試合を最後に二軍落ち。7月からは再び二軍に戻った。5月、6月の2か月間一軍にいたが、18試合に出場して39打数3安打 打率.077、1本塁打、4打点、15三振。




      五月〜六月の二ヶ月間、一軍で全く打てなかったことが尾を引いていたのか、七月は本塁打こそ2本打つが四月はあれだけ打ちまくった二軍で、一カ月でわずか4安打と不振に陥る。ホームランを打っている日本ハムの岩本は、後にエースとなるガンちゃんこと岩本勉。




      八月には1950年代から毎夏続く、巨人二軍恒例の北海道遠征に帯同している。その昔は1年間で一軍、二軍の入れ替わりはほとんどなく、この北海道遠征が分岐点で、遠征時の活躍の度合いで一軍に上がれるチャンスがあったため、二軍の選手は目の色を変えて臨んでいたという。


      松井は北海道で調子を取り戻し8月13日からの日本ハム三連戦では10打数6安打1本塁打。
      8月22日に一軍に再昇格している。8月30日に東京ドームで二軍戦があったため出場。翌31日に一軍では約四か月ぶりに本塁打を放つ。以降、シーズン閉幕まで1か月半の間で10本塁打を打っている。松井にとって8月30日が自身のキャリアの中で最後の二軍戦出場だった。



      1993年の松井秀喜の二軍成績の詳細

      二軍最多勝投手は小野和幸

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        厚沢和幸の記事の際に少し触れたが、NPB史上二軍で最も勝っている投手が小野和幸で通算63勝。


        小野は1980年ドラフト外で西武に入団。高卒ながら1年目からイースタンリーグで32試合に登板し15勝で最多勝のタイトルを獲得している。この年の西武二軍は、70試合で41勝27敗2分の成績を残してイースタンリーグ優勝するが、チームの勝ち星の1/3以上は小野だった。
        “ライオンズ”というくくりで見れば、西鉄時代はウエスタンリーグで一度も優勝していないのでこれが二軍初優勝だった。


        小野


        1年目はシーズン終盤の10月に一軍で初登板、初勝利を挙げるが、一軍で投げたのはこの1試合のみ。
        二軍ではこれほど突出した記録を残しながら、一軍ではほとんど試されることはなかった。
        また入団から4年間で二軍では38勝も挙げているのに、一軍ではわずか13試合で2勝のみ。これほどの成績を残しながら、なぜか一軍からはほとんど呼ばれなかった。


        1988年に中日に移籍して18勝を挙げるが、通算勝ち数は43と伸びなかった。
        決して通算勝ち数が多いわけではないが、二軍で勝ち数の多い投手は一軍ではほとんど勝っていないケースが多い。
        一軍でも二軍でも40勝以上している稀な記録の持ち主だ。

        水口大地、支配下登録

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          7月23日に西武の水口大地内野手が支配下登録された。
          身長は163僂韮庁紕裡舛瞭眤叱一と並んで球界で最も小柄な選手。二軍では主に二塁を守っている。

          水口の特徴は粘り強さ。昨日までイースタンリーグで108打席に立ちながら、三振はわずかに1個。
          あまり目立たない選手かもしれないが、二軍とはいえ驚異的な三振の少なさを誇る。


          イースタンリーグでの水口の全打席。拡大してご覧ください。

          miuguti


          5月19日、60打席目にして日本ハムの白村から初めて三振するが、これが今のところ今シーズン唯一の三振。
          水口の主なポジションは二塁だが、西武にはの不動の二塁手・浅村がいる。一軍に上がったとしても代走がメインになるだろうから打席に立てる機会は少ないかもしれない。しかし、一軍の主戦級の投手に対して水口得意の粘りがどの程度通用するのか非常に興味がある。

          大谷に対してどこまで粘れるのか、ぜひ見てみたい。

          二軍で49勝、一軍では0勝

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            ファームの帝王は打者だけではない。投手にも存在する。
            近年、投手は分業制が確立され、先発完投型の投手はもはや絶滅危惧種となってしまった。先発投手が6〜7回でお役御免となれば当然試合につぎ込む投手も増えるため一軍ベンチ入りする投手の数も増えた。


            一昔前までは一軍登録される投手は一球団10人前後だったのが、今では最低でも12人は一軍登録される。また、ケガ以外にも様々な理由で投手は一軍と二軍の入れ替えが激しく行われる。とにかく投手は何人いても足りないと言われるほどで、二軍である程度の結果を残せば大概は一軍でチャンスをもらえる。


            しかし、二軍では抜群の成績を残しながらも一軍では全く通用しなかった投手が存在した。
            日本ハムの厚沢和幸。


            二軍で一番勝利数が多いのが西武、中日、ロッテで投げた小野和幸の63勝。近鉄の山村達也が62勝。巨人、阪急の島野修が53勝。巨人、ロッテの田村が51勝。
            それに続くのが巨人の柏田貴史と日本ハムの厚沢和幸の49勝だが、名前を挙げた5人の中で厚沢のみ一軍で1勝もしていない。

            厚沢の二軍での成績。

            厚澤2


            1994年にドラフト2位で日本ハムに入団。3年目の1997年にはイースタンリーグで10勝を挙げている。
            しかし、この年は一軍では3試合しか投げていない。1999年には12勝で最多勝、防御率2.85で最優秀防御率のタイトルを獲得しているにもかかわらず、一軍では3試合の登板のみ。

            1999年の日本ハム一軍投手陣の顔ぶれを見てみると、先発では岩本ツトムが13勝で防御率3.81、関根裕之が12勝で防御率4.34、ウィッテムが6勝で防御率5.76。リリーフは黒木潤司、下柳剛らがいたが、盤石の投手陣とは言い難い顔ぶれであり、希少性の高い左腕でもある厚沢がなぜほとんど一軍で試されなかったのが謎だ。


            厚沢は9年間で二軍では49勝を挙げながら、一軍では42試合に登板して0勝4敗。
            もう少し一軍でチャンスを与えれば活躍できていたかもしれない。不運な投手だった。


            現役引退後はそのまま日本ハムに残り二軍コーチに就任。一時スカウトに転身したが、2014年から再び投手コーチに復帰。
            一軍での実績や球団への貢献度でコーチ人事が決まることが多い日本球界において、現役時代は通算0勝でありながら一軍で投手コーチを任さられていることからも、選手を見る目や指導力には定評があるのだろう。

            二軍で110本塁打、一軍では0本塁打

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              二軍で信じられないような記録を残しながら、一軍では全く活躍できない選手がしばしいる。そんな選手は、野球ファンの間では「ファームの帝王」と呼ばれる。

              二軍で突出した記録を残すには、それだけ二軍の試合に出場する必要がある。ある程度の結果を残していくことで封通であればどこかのタイミングで一軍に呼ばれる。すなわち二軍の試合に出場し続けるということは、一軍の同じポジションに絶対的な選手がいるために一軍に上がれるチャンスすらないというケースが多い。
              そんなファームの帝王の中に、二軍で通算100本塁打以上を打ちながら、一軍では1本の本塁打も打てなかった選手が一人いる。


              元近鉄、阪神の中村良二。

              中村良


              1986年ドラフト2位で近鉄に入団。高卒ながら1年目からウエスタンリーグで70試合に出場。球団からの期待も大きく、4年目にはウエスタンで12本塁打を記録している。

              しかし左投右打の中村が守るポジションは一塁。二軍では外野も守ったが守備は決してうまくなかった。
              当時の近鉄は一塁には石井浩郎がおり、指名打者にはブライアントがいた。そのため、中村はいくら打っても一軍からなかなか声がかからなかった。


              1992年からはウエスタンで13盗塁、20盗塁、13盗塁と3年連続で2ケタ以上の盗塁を記録している。
              同じくファームの帝王だった元巨人の大森もそうだったが、打つだけでは一軍に呼ばれないため、走る方でもアピールしようと必死になっていたと思われる。
              1995年9月28日のウエスタンリーグ阪神戦(鳴尾浜)で、1回表に中込から12号本塁打を放つが、これがウエスタンリーグ史上2人目の通算100号本塁打となった。この年は一軍では13試合に出場したがわずかに1安打のみ。


              1997年には近鉄を自由契約となりテストを経て阪神に合格するが一軍出場はなく、シーズンオフには自由契約になり現役を引退した。11年間の現役生活で二軍では通算110本塁打を放ちながら、とうとう一軍では1本のホームランも打つことはなかった。
              打撃を売りとする選手で指名打者制度のあるパリーグに長く在籍したが、残念ながら自慢の長打力を一軍の場で発揮することはできなかった。

              第1回ジュニア日本選手権

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                イースタンリーグとウエスタンリーグの対抗形式のオールスターが始まったのは1963年だが(1966年は各球団の選手不足により開催見送り)、イースタンリーグの優勝チームとウエスタンリーグの優勝チーム同士のいわゆる日本シリーズが行われたのは14年後の1987年から。


                1987年のイースタンリーグの優勝チームは巨人。ウエスタンリーグの優勝チームは中日。ファーム日本シリーズは「ジュニア日本選手権」と命名され、両チームは9月14日に平塚球場でファーム日本一をかけて対戦した。


                1987年9月14日 平塚球場 6時開始 観衆1万6千
                中日二軍 000 000 000 = 0
                巨人二軍 100 006 11X = 9
                ▽本塁打:佐藤洋(巨)
                ▽二塁打:岡本圭、栄村、高田、藤本健、加茂川、山本幸(巨)
                ▽バッテリー
                (中)●斉藤、浜田、山本昌、白次−金田、長谷部
                (巨)○加茂川−高田


                巨人は一回表にベテランの岡本圭の二塁打で先制。先発の加茂川も序盤から飛ばした。中日打線にチャンスらしいチャンスを与えずにスコアボードに0を並べると、巨人打線は六回裏に一挙6得点の猛攻で試合を決めた。六回途中から中日の3番手でマウンドに上がったのは、今なお現役を続ける山本昌。しかし、山本は七回裏に佐藤洋にダメ押しの本塁打を浴びるなど、1回1/3、19球を投げて被安打3、自責点1と精彩を欠いた。当時は誰もその後の活躍を予測していなかっただろう。


                加茂川は139球の熱投で中日打線を散発6安打に抑えて完封勝利。巨人が初代ファーム日本一に輝いた。最高殊勲選手賞は完封勝利の加茂川、優秀選手賞は本塁打を放った佐藤洋、3安打猛打賞の栄村忠広、2安打1打点2盗塁の藤本健治が受賞した。しかし、この試合で活躍した4選手は、その後の野球人生で大成することはなかった。中日はこの年限りで現役を引退する36歳の藤波行雄が代打で出場している。


                 

                60年前に開催された二軍のオールスター

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                  倉敷で行われる予定だった今年のフレッシュ・オールスターは台風のため中止された。二軍のオールスターが中止されたのは初めてのことになる。


                  二軍のオールスターは1963年に始まった。当時の呼び名はジュニア・オールスター。
                  元々は前年の1962年に二軍オールスターの開催が計画されていた。どちらかというとウエスタンリーグを管轄するパリーグ側が熱心に動いたが、最終的にはウエスタンリーグが希望する開催時期とイースタンリーグ側が主張する開催時期の意見が食い違い、最後まで溝が埋まらずに物別れに終わり1962年は開催されなかった。

                  1年後の1963年に満を持してジュニア・オールスターが始まったのだ。
                  しかし、実は1963年に開催されたジュニア・オールスターが初の二軍オールスターではない。


                  イースタンリーグとウエスタンリーグが始まったのは1955年。この年は現在のようなイースタンリーグ対ウエスタンリーグではなく、イースタンリーグ内でのみでオールスターが開催された。イースタンリーグに参加する7球団をセ・リーグとパ・リーグに分け、全セ対全パの対抗試合のような方式をとし、報知新聞社・スポーツニッポン新聞社の協賛により9月18に開催されることになった。ちなみにウエスタンリーグではオールスターは開催されていない。


                  イースタンリーグ・オールスターを開催するにあたり球場選定には難航した。というのも、前年の1954年にセリーグ二軍による新日本リーグが後楽園球場で行われたが、球の行方を見ずに球場のスタンド内で遊ぶ子供に打球が直撃し死亡事故となった。以来、後楽園球場は二軍戦の開催を断るようになった。後楽園球場が使えないということで試合は駒沢球場で開催された。


                  駒沢球場は収容人員が2万人だったが、報知・スポニチの両新聞社は5万枚の招待券を配布した。招待券大量ばらまきの効果もあり、普段は閑古鳥の鳴く首都圏開催の二軍戦でありながらも当日は6,000人の観客が訪れた。試合に先立ち、1955年のイースタンリーグの優勝チーム・毎日の表彰式があり、徳永イースタンリーグ幹事長より小田喜美雄主将に優勝杯、首位打者、本塁打王、最多勝のタイトルホルダーの3選手にはそれぞれ記念品が贈られた。


                  1955年9月18日 駒沢球場 午後3時15分開始
                  全セ 000 000 100|1
                  全パ 000 000 000|0

                   
                  勝 深沢 1勝0敗
                  敗 大庭 0勝1敗
                  ▽本塁打 なし
                  ▽勝利打点 深沢 ▽試合時間 1時間50分

                  【セ・リーグ】                              【パ・リーグ】
                           打 安 点                  打 安 点
                  (4)佐々木(国鉄) 3-1-1          (9) 英 (東映) 4-2-0
                  4  工 藤(巨人) 0-0-0                    (8)水 野(毎日) 4-1-0
                  (7)小 寺(巨人) 2-0-0          (2) 佃 (東映) 4-1-0
                  79 坂 内(大洋) 2-0-0                  (8)水 野(毎日) 4-1-0
                  (2) 森 (巨人) 4-0-0                  (7)橋 本(毎日) 4-0-0
                  2 山 崎(巨人) 0-0-0                  (4)飯 山(毎日) 3-0-0
                  (5)土 屋(巨人) 4-1-0                  (5)丸 山(大映) 3-0-0
                  (8)林 田(国鉄) 4-0-0                  (3)大 村(毎日) 2-0-0
                  (3)井 上(巨人) 4-1-0                  3 高 木(東映) 1-0-0
                  (9)初 岡(国鉄) 3-2-0                  (6)喜 吉(大映) 3-0-0
                  7 河 野(国鉄) 1-0-0                  (1)藪 崎(毎日) 1-1-0
                  (6) 南 (国鉄) 2-0-0          1 大 庭(トンボ) 1-0-0
                  (1)関 口(大洋) 1-0-0                  H 斎 田(東映) 1-0-0
                  1 深 沢(国鉄) 0-0-1                                合計 31-5-0
                  1 三 浦(巨人) 0-0-0
                        合計 30-5-1

                   
                  ▽三塁打:セ1、井上 ▽二塁打:セ1、初岡 ▽盗塁:セ1、佐々木



                  試合には翌1956年に大映に移籍し29勝を挙げてブレークする巨人の三浦方義や、同じく巨人から後にV9時代の正捕手として長らく活躍する森昌彦が出場している。


                  五回まで両軍譲らず0対0で展開するが、6回表二死から全セの井上(巨)のセンター前の当たりがイレギュラーバウンドして中堅手の水野が後免。その間に井上は一挙に本塁まで走ったが、後免した井上からの好返球によりタッチアウト。惜しくもランニングホームランはならなかった(記録は三塁打と本塁への走塁死)。


                  全セは続く7回表にも今度は一死三塁のチャンスを作り、今度は投手の深沢(国)のスクイズにより1点を先取。全パは最終回に一死一・二塁のチャンスを作ったが、三浦(巨)が後続を抑えて1対0で全セが逃げ切った。

                   

                  谷佳知、2000本安打達成

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                    オリックスの谷佳知は通算2000本安打まであと77本として今シーズンを迎えたが、今日まで一軍出場は2試合のみで残り77本から足踏み状態が続いている。しかし、実は7月11日のウエスタンリーグの阪神戦で、一軍二軍合計2000本安打を達成している。


                    7月10日に行われたウエスタンリーグの阪神戦で谷は2安打を記録。この試合が終わった時点積み上げた谷の安打数は、一軍で1923本、二軍で76本。合計すると1999本。


                    一軍、二軍合計2000本安打まで残り1本で迎えた7月11日。阪神の先発は2年目左腕の山本翔也。谷は「三番指名打者」でスタメン出場。すると、初回の第一打席でいきなりレフト前へのヒットを放った。谷にとって、このヒットが一軍二軍合計2000本安打となった。


                    と、おそらく谷本人はこのヒットが一軍、二軍通算2000本安打だったということは知らなかっただろうが。



                     

                    二軍の出来事を見える化

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                      広尾晃さんが変わりゆくドラフトの歴史を表にしたのに触発されて、同じように二軍の出来事を表にして見える化してみた。
                      とてつもなく長くなりそうなのでとりあえず二軍が始まってからの5年分。重要な出来事を時系列順に並べてみた。ブログで容量の制限があるらしく、表が見づらくて恐縮だがサムネイル化できるので拡大してご覧いただきたい(月が入っていない箇所は正確な時期は不明)。





                      日本プロ野球で二軍というものが出来たのが1948年。合併により余ってしまった指導者、選手の受け皿的に二軍は誕生した。
                      この辺の背景や経緯は野球雲4号野球雲5号に寄稿させていただいたのでぜひお読みください。


                      1950年代に入ると多くの球団が二軍を発足させる。しかし、同時に経営難により二軍を解散させる動きも目立つ。南海、松竹は一時期二軍をノン・プロ化し、社会人大会にも参戦させている。


                      1952年に二軍初の公式リーグ戦・関西ファームリーグが始まる。関西ファームリーグが後のウエスタンリーグの基礎ともなる。
                      関西ファームリーグも全試合の調査ができているので、そのうちこのブログで紹介したいと思う。

                      武山球場は三塁打量産球場だった

                      0
                        二軍の本拠地の中でもほとんど情報がないのが、サンケイアトムズ・ヤクルトが1968年から1977年まで使用していた武山球場。武山球場は京浜急行電鉄の所有地で今も存在する。地図で見る限り、不便で行くのが大変そうなとても辺鄙な場所にあることが分かる。おそらく当時と球場の形状は異なると思われるが、1960年代当時から今も残る球場でありながら、なぜか情報がとてつもなく少ない。


                        そして武山球場について調べてみたところ、意外な真実が分かった。
                        ちなみに、なぜ国鉄出身のサンケイが京急の所有地に二軍の本拠地を構えたのかは何かの書籍で読んだ気がするが思い出せない・・・。


                        まずは武山球場の当時の広さだが、両翼90メートル、中堅120メートル程度が標準だった時代に、両翼が100メートル、中堅130メートルのマンモス球場だった。

                        球場の広さは三塁打の数が物語っている。1969年のイースタンリーグ全体の三塁打は5球団で131本(1球団64試合)。
                        現在、イースタンリーグには7球団が参戦し年間で1球団100試合以上日程が組まれているが、昨年1年間のリーグ全体の三塁打の数が134本。1969年は、試合数が1.5倍以上になった現在とほぼ同数にあたる。


                        武山球場を本拠地とするサンケイは、リーグ全体の1/3近い42本の三塁打を記録している。ちなみに、本塁打は5球団で年間142本。サンケイに至っては三塁打の半分以下の20本。一番出にくいはずの三塁打が、本塁打の倍以上も出ていたのだ。
                        そして武山球場で行われた試合の詳細を見てみるとさらに驚きのことが分かった。




                        1969年は武山球場で30試合が行われたが、三塁打が57本も乱れ飛んでいる。1試合平均で1.9本にも及ぶ。
                        三塁打が出ていないのはわずかに6試合のみ。

                        8月18日のサンケイ対ロッテの試合では1試合6本の三塁打が飛び出すが、ロッテは3者連続三塁打まで記録している。
                        10月21日のサンケイ対巨人戦では、巨人の倉田、山内の2人の投手が三塁打を放っている。


                        たまたまこの場所が空いていたのだろうが、狭い球場が主流だった当時、一軍とはあまりにかけ離れた広さの武山球場で試合をすることに効果はあったのだろうか。


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