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    • 2017.01.17 Tuesday
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    山陽クラウンズに迫る

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      1951年1月30日、浮田氏が所属する西日本パイレーツは、西鉄グリッパーズに吸収合併されることが決まります。
      これにより、山陽クラウンズに預けられていた西日本所属の選手は全員解雇となり、浮田氏は故郷の佐世保に帰り市役所の体育課に就職をします。しかし浮田氏は、「今一度、硬式野球で自らの目標を達成させたい」と山陽の総監督・加藤吉兵衛にお願いし、正式に山陽クラウンズへ入団することが決まり野球界に返り咲きます。


      ここで他球団に目を向けてみると、大洋ホエールズは二軍の編成こそしていなかったものの、複数の準登録選手(一軍の公式戦には出場できない)を抱えており、渡辺大陸総監督が実質的な二軍として準登録選手の指導にあたっていました。
      しかし1951年途中に渡辺大陸が大洋を退団すると、実質的な二軍もなし崩しとなってしまい、大洋は山陽クラウンズに数名の選手の養成を委託し預けます。

      また山陽クラウンズ内では、創設時の1950年から在籍していた捕手の小笹恒夫が、1952年に毎日オリオンズへ入団することが決まります。これは山陽クラウンズを経由して他球団へ移籍した初のケースとなりました。


      再び話しを1951年に戻すと、この年から近藤金光が山陽クラウンズの監督に就任し選手の指導にあたります。この年は、たまに在阪球団の二軍との練習試合を行ったものの、大半の時間を練習に費やし、山陽の選手たちは実践の機会が明らかに足りていませんでした。

      試合の機会が少なく選手達のモチベーション維持を危惧した山陽球団は、1952年より一軍の前座試合になることが決まった二軍戦への本格的な参戦を申し入れ、これが了承されます。4月15日には在阪球団の二軍による初の公式リーグ戦にあたる「関西ファームリーグ」の設立が決まり、山陽クラウンズも関西ファームリーグに参戦します。

      本格的に二軍戦に参戦した当初こそは連敗続きの山陽も、7月5日、6日に開催された「和歌山県知事杯 関西ファームリーグトーナメント大会」では1回戦で阪神、準決勝で西鉄を破り決勝まで駒を進めます。決勝戦では名古屋に1−11で大敗するものの、春先よりも着実に選手達が力をつけてきていることを証明します。


      <1952年7月5日〜6日 和歌山県知事杯 関西ファームリーグトーナメント大会の結果>
      トーナメント

      当時の新聞紙面で確認できる限り、山陽は6月18日から8月28日の間に12試合を戦い、8勝4敗の好成績を残します。しかしながら、8月28日の名古屋戦を最後に山陽が試合を行った形跡は見当たりません。間もなく、山陽は解散します。


      「会社の都合で球団の解散が決まるが、自分と高橋眞輝外野手の2人は紹介されて大洋へ入団することになり、9月から東京生活が始まった」というのが浮田氏の証言です。社史には、「経営が成り立たずに1952年10月に解散」と載っていました。
      大洋から複数の準登録選手を預かり、少ないながらも山陽には養成委託料は入ってきたでしょうが、解散が決まるまでの間に山陽が自前で育てた選手を他球団へ移籍させたのは小笹恒夫の1件のみ、二軍戦の収入もほとんどなく経営が行き詰まってしまったのだと推測します。
      新聞では山陽野球団の解散に関する記事が見つけられなかったため、はっきりとした解散時期は不明ですが、浮田氏の証言から推察するに1952年9月頃の出来事だと思われます。


      大洋は翌1953年に松竹と合併し、球団名は大洋松竹と変わります。浮田氏は1953年に一軍での初登板も果たしますが、肩を故障してこの年限りで大洋松竹を退団、現役を引退します。西日本パイレーツの練習生から山陽クラウンズを経て大洋へ移籍しながら、わずか1年限りでユニフォームを脱ぐことになりましたが、「悔いはありません。」という一言で、浮田氏からの手紙は締めくくられていました。


      以上が元エースの浮田逸郎氏の証言と当時の新聞から見えてきた戦後間もなくわずか3年間だけ存在した独立二軍球団・山陽クラウンズの足跡です。
      最後に、私が調べられた限りの山陽クラウンズの1952年の成績です。そのうちボックススコアもアップしようと思います。


      1952年 山陽クラウンズ成績
      28試合11勝16敗1引分
      浮田逸郎 8勝7敗  31打数9安打 打率.290 1本塁打
      ※新聞で確認できた結果のみ集計しているため、実際の数字とは異なります。参考程度と思ってください


      =おわり=

      山陽クラウンズに迫る

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        1950年10月3日、明石球場に阪急、南海を招いて山陽野球団誕生プロ野球二軍リーグ戦が開催されました。
        この試合の入場料は大人60円。小中学生30円。当時のプロ野球の入場料が80円だったことを考えれば、二軍戦とはいえ入場料はそれなりに高かったと言えます。


        1950年10月3日 明石球場 10時試合開始
        阪急 200 320 100=8
        山陽 110 000 000=2
        (急)久保−新居、土屋
        (山)梶原、藪田−小笹

        1950年10月3日 明石球場 12時試合開始
        南海 100 000 220=5
        阪急 000 010 000=1
        (南)有友、野口−眞田、杉本
        (急)石田−新居

        1950年10月3日 明石球場 14時試合開始
        南海 003 000 000=3
        山陽 000 002 000=2
        (南)萩本、西堀−眞田
        (山)浮田−小笹


        山陽クラウンズの記念すべき初試合は二軍の歴史が最も長い阪急戦。先発の梶原宗弘が初回に2点を失うものの、その裏すかさず1点を返し、2回裏に同点に追いつきます。しかしその後、小刻みに得点を重ねた阪急の前に2−8で惜敗。なおこの試合で2番手として登板した藪田政則は、浮田と同じく西日本パイレーツから預けられた選手の1人でした。

        南海−阪急の試合を挟み、つづいては14時から南海との試合に臨みます。山陽は3回に3点を先制されますが、6回に2点を挙げて1点差にまで詰め寄ります。しかし反撃もここまで。南海にも敗れてこの日は2連敗。先発の浮田は完投するも打線の援護がなく好投報われませんでした。


        山陽クラウンズの初試合から1ヵ月半後の11月21日、二軍にとって初の公式トーナメント戦となる「第1回日本マイナーチーム選手権大会」が大阪球場で開催され山陽クラウンズも参戦します。
        トーナメント1回戦の対戦相手は大洋。この試合の先発・藪田は4回表に4連打を浴びて降板。リリーフした浮田も大洋打線の勢いを止められずこの回だけで4失点。一方、山陽打線は大洋先発・川口の速球に完全に力負けし、6回裏に深町の三塁打と來田の安打で2点を返すのが精いっぱい。1回戦で早くも姿を消します。


        1950年11月21日 大阪球場
        大洋 014 000 010=6
        山陽 000 002 000=2
        (洋)川口−川瀬
        (山)藪田、浮田−小笹


        山陽クラウンズの1年目の戦績は3試合で0勝3敗でした。
        この年限りで村井竹之助監督は退任、代わって1951年からはオールスポーツ紙で評論家として活動していた早稲田大OBの近藤金光が監督に就任しました。

        =つづく=

        山陽クラウンズに迫る

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          1950年の時代背景を見てみると、この年からプロ野球界はセ・パ2リーグに分裂します。球団数も従来の8球団から一挙に15球団にまで増加し、それ伴い各球団は優秀な選手を確保するのが急務となり、他球団からの引き抜き合戦やノンプロ球界からのスカウトで野球界には大枚が飛び交いました。


          そしてこの現状に一石を投じようと立ち上がったのが山陽電鉄でした。他球団やノンプロからの選手引き抜きには採算が合わない盲点を狙い、金まみれのプロ野球界の浄化を目指して無名でも若い素質のある選手を鍛え上げ、選手には野球の技術だけではなく教養を習得する機会も提供し、金をかけずにクリーンなプロ選手たるふさわしい野球選手を育成し、野球界に送り込もうという壮大な計画を立てました。


          球団の正式名称が「神戸クラブ山陽野球団」と決まったのは、伝統野球の兵庫に一つのプロチームもないのはさびしいという想いから球団名に神戸クラブを冠し、将来的には本格的に野球界への参戦を視野に入れ、以下3つのビジョンを柱に山陽電鉄は一軍の母体を持たない独立二軍のプロ野球球団を経営することになりました。


          1.選手を育成しプロ野球球団に移籍させる → 移籍金
          2.他球団から若手選手を預かり代わりに育成する →選手育成の委託料
          3.二軍戦の開催 →試合収入


          浮田氏は二軍を持たない西日本パイレーツから、「2」の委託の形で山陽野球団に預けられたことになります。
          委託費はボール代、合宿費負担で一人一月1万円でした。

          浮田氏の証言によれば、山陽野球団創設時の代表(総監督)は内藤氏、監督は村井竹之助氏でしたが、8月に内藤氏が急逝のため代わって加藤吉兵衛氏が代表(総監督)に就任したとのことです。内藤氏については残念ながら苗字しか分からないため詳細な経歴は分かりません。どなたか内藤氏のことをご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただきたいです。


          内藤に代わって総監督に就任した加藤吉兵衛は早稲田大出身。神戸球界の元老格でした。
          監督の村井竹之助は加藤と同じく早稲田大出身の一塁手・外野手で、1934年(昭和9年)の全日本の一員でもありました。


          山陽野球団の選手寮は社史に記載の通り須磨にあり、選手たちは毎日11時〜16時まで主に明石球場で練習し、明石球場が使用できない日は神戸の浜の宮運動場で練習をしました。wikipediaによれば本拠地は姫路球場となっていましたが、これはおそらく浜の宮運動場のことでしょう。ただし、実際に練習のメインで使用していたのは明石球場であり浜の宮運動場ではありません。


          総監督の内藤氏が急逝し代わって加藤吉兵衛氏が総監督に就任したのちに、山陽野球団のニックネームは山陽クラウンズと命名され、10月1日には同3日に明石球場で阪急、南海を招いて3球団で「山陽野球団誕生プロ野球二軍リーグ戦」が開催される事が発表されました。

          また10月16日に開催されたセリーグの代表者会議で、11月21日から開催される初の二軍の公式戦となる「第1回マイナーチーム選手権大会」へ山陽野球団の参加も決まります。


          次回は山陽クラウンズの初試合についてを書く予定です

          =つづく=

          山陽クラウンズに迫る

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            まず「山陽電気鉄道はプロ野球球団を経営していた」をお読み下さい。


            1952年のスポーツ新聞に掲載されている山陽クラウンズの試合結果を追っていくと気になる選手がいました。
            とある投手がほとんどの試合に登板しており、おそらく山陽球団のエースで中心選手だったのではないかと思われます。この方に山陽クラウンズのことを直接聞くことはできないだろうか?


            浮田 逸郎(うきた いつろう)
            1932年3月27日生 右投右打 投手
            佐世保北高校出身
            1950年西日本パイレーツ入団(練習生)
            1953年洋松ロビンス  9試合0勝0敗 防御率6.00


            「浮田逸郎」をネット検索すると、同姓同名の方が佐世保市の軟式野球連盟会長をつとめているとの情報を発見。山陽クラウンズでプレーしていた浮田投手は佐世保北高校出身。同一人物で間違いないと確信し、「会って話を聞かせていてだけないでしょうか」と、佐世保市軟式野球連盟の浮田氏宛にダメ元で手紙を送ってみました。


            そして浮田氏に手紙を送ってから2ヵ月後。なんと浮田氏からお返事が届きました。
            浮田氏の体調面もあり残念ながら直接の面会は叶いませんでしたが、突然の手紙にも関わらず、当時のことを丁寧に教えていただく事ができました。
            ここからは私が調べた情報と、山陽クラウンズの元エース・浮田氏の証言に基づき、山陽クラウンズの実態に迫ります。


            浮田氏は高校を卒業後、1950年にテスト生として西日本パイレーツに入団します。しかし西日本パイレーツには二軍が存在していなかったため、同年6月に浮田氏を含む西日本の4選手が山陽クラウンズに預けられます。


            ここで一つの疑問が浮かび上がります。山陽電鉄の社史では、「山陽クラウンズは1950年9月に創設」となっているのに対し、浮田氏の証言では1950年6月に山陽クラウンズに預けられており、社史で公表されている創設時期の9月と浮田氏の証言には3ヶ月のズレが生じます。

            そこで当時のスポーツ新聞を1950年5月まで遡って再度しらみつぶしに調べたところ、1950年5月14日のスポーツニッポン大阪版に山陽球団創設に関する記事を見つけました。


            山陽球団創設に関する当時の記事をそのまま転記します
            --------------------------------------------------------------
            「マイナーチーム山陽球団生る」
            山陽電鉄ではこのたびプロ野球マイナー・チームをめざして神戸クラブ山陽野球団を結成することになった。これはあくまでも選手の養成を目的として青少年より希望者を募り正しい野球技術、プロ野球人としての教養など円満なる常識をグラウンド合宿中の日常生活に織り込んでいままでのような野球界のへい害を除去し明朗なスポーツマンライクな野球界の実現を目指している。経営は山陽電鉄株式会社が当たることになって選手の公募は22日九時から明石球場で行われる。有資格者は十七歳−二十三歳まで、これらのコーチには村井竹之助氏が当る
            --------------------------------------------------------------

            従って山陽クラウンズの創設年月は、山陽電鉄の社史に掲載されている1950年9月ではなく、正しくは1950年5月13日だったということが分かりました。また、正式な名称は「神戸クラブ山陽野球団」だったということも分かりました。
            次回の投稿では、新聞に掲載されていた山陽クラウンズ創設の目的である「選手の養成」とはどういうことなのかを書いていこうと思います。


            =つづく=

             

            山陽鉄道がプロ野球球団を経営していた

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              今から60年以上前、兵庫県を走る山陽電気鉄道がプロ野球球団を経営していました。
              その名も「山陽クラウンズ」

              しかしながら山陽クラウンズに関する情報はほとんどなく、山陽電気鉄道がプロ野球球団を経営していた過去があることを知っている人もごくわずかではないかと思います。
              その実態の大半が不明で、wikipediaで確認できる山陽クラウンズの情報もほんのわずかです。


              1.1950年9月に結成。一軍の母体がない独立二軍チーム。
              2.総監督は加藤吉兵衛、監督は近藤金光。
              3.本拠地は姫路球場。ただし、現存の姫路球場とは異なる。
              4.経営が成り立たず、1952年10月に解散。


              以上がwikipediaに掲載されている山陽クラウンズに関する数少ない情報です。しかし、ジャイアント馬場の野球選手時代を調べた時にもそうだったように、wikipediaの情報には誤りも多く情報を完全に鵜呑みにするのは危険です。
              また、山陽クラウンズがなぜ一軍の母体を持たず二軍のみの球団だったのか等不明な点も数多くあります。そこで山陽クラウンズの実態に迫るべく当時の新聞や野球雑誌を調べてみることにしました。


              まず「山陽電気鉄道100年史」という社史の存在を知り、さっそく国会図書館で借りてみることにしました。
              この社史から得られた情報は以下の通りです。


              1.昭和25年9月にプロ野球選手の育成を目的に発足。
              2.総監督に加藤吉兵衛、監督に近藤金光を迎えた。
              3.須磨寺駅〜須磨駅の山側に合宿所を設けた。
              4.明石球場などで二軍戦を行い、明石球場の試合で旅客誘致に多少の効果があった。
              5.経営が成り立たなくなり昭和27年10月に解散。


              wikipediaでは本拠地が姫路球場となっているのに対して、社史では明石球場を使用していたと書かれています。さっそく本拠地に関してはwikipediaの誤情報の可能性が出てきました。そもそも、wikipediaの「現存とは異なる姫路球場」とはどこのことを指しているのか?


              ここからは当時の新聞や野球雑誌を調べます。
              しかしながら当時の新聞や野球雑誌は二軍の情報などほとんど取り扱っておらず、ましてや一軍を持たない二軍だけの球団の情報なんて見つけるのも一苦労でした。

              重箱の隅をつつくように数少ない断片的な情報を探しながらそれをつぎはぎしていくことになり、いくつかの収穫を得ることはできましたが、二軍とは言えプロ野球球団が発足したのであればそのことが新聞に載っていてもおかしくないはずですが、1950年9月のスポーツ新聞を読み漁っても山陽クラウンズが発足したという情報はどこにも掲載されていませんでした。


              肝心の球団発足に関する情報を見つけられず雲行きも怪しくなってきてしまいました。
              そこでふと思ったのが、当時を知る人に直接話を聞くことはできないか?山陽クラウンズのOBの人に話しを聞きたい。そんな想いが強くなってきました。


              =つづく=


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