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    • 2017.01.17 Tuesday
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    山本昌のファームでの通算成績を振り返る

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      私はNPBが選手のファームでの年度別成績や、過去のファームの成績を公開しないことに常々不満を持っていますが、来年50歳を迎える球界のレジェンド・山本昌のファームでの通算成績を紹介します。


      山本昌


      ウエスタンリーグでの実働は18年。1988年にマイナーリーグに野球留学し、帰国後のシーズン終盤に頭角を現しますが、成績を見る限りそれまではやや伸び悩んでいる感がったのが分かります(1987年は肘の疲労骨折のため、シーズンをほぼ棒に振る)。

      ここ数年は一軍での限られた登板の日に合わせた調整のため、ウエスタンリーグで投げる機会も増えています。
      2009年は44歳にしてウエスタンリーグで規定投球回数にも到達していますが、もちろんイースタンリーグ含めてもファームでの最年長規定投球回数到達者になります。おそらく今後二度と破られることのない最年長記録になるのではないでしょうか。

       

      スコアブックには残っていない記録

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        先日、「二軍監督・コーチはイースタンリーグの試合に出場できた」という記事を書き、巨人の福田二軍コーチ、東京の大沢二軍監督、ロッテの植村二軍コーチが現役引退後にイースタンリーグの試合に出場したことを紹介させていただきましたが、ALEXさんからコメントをいただき、1977年以降にコーチ登録で二軍の試合に出場したケースが3件あることを教えていただきました。


        1977年 ロッテ ジム・ラフィーバー 2試合9打数2安打
        1978年 広島 フレッド・ シャーマン 3試合2勝0敗
        1979年 阪神 切通 猛 2試合3打数2安打


        二軍監督・コーチが試合に出場できる規約はイースタンリーグだけではなく、ウエスタンリーグにもあったようです。
        この事は知らなかったので驚きました。やはりまだまだ知らないことはたくさんあります。ファームの歴史は奥が深いです。


        せっかく二軍監督・コーチの試合出場の話しがでましたので、番外編としてイースタンリーグ休止期間中の1958年、巨人・国鉄・大洋二軍による東北・北海道遠征時に起こった出来事を書こうと思います。
        この時の巨人二軍は、現役時代は猛牛のニックネームで親しまれたスター選手で、カツカレーの生みの親としても知られる千葉茂が監督でした。

        少数でこの遠征に臨んでいた巨人は野手のやりくりに非常に苦労していました。
        7月17日に弘前で行われた大洋戦は、野手不足により巨人は三塁に島田博(本職は捕手)、二塁に関口正巳(本職は投手)の布陣で試合に臨みますが、試合中、急所にファウルボールが直撃した捕手の山崎弘美が途中退場してしまいます。

        山崎のケガによる退場で、島田が三塁から本職の捕手に回り、関口が二塁から三塁に回り、本職が投手の寺口博之が二塁に入ります。ところが寺口は7回表に平凡なセカンドゴロをトンネル。これで寺口はすっかり自信を喪失してしまいます。

        寺口のエラーも絡み7回にも大洋に追加点を献上し、試合は9−1と大洋が大量リードの一方的な展開となります。そして見兼ねた巨人の千葉茂二軍監督は、自らグラブをはめて寺口と交代で二塁のポジションについたのです。1956年限りで現役を引退した千葉監督にとって、実に2年ぶりの試合出場となりました。

        8回表に千葉監督に打席が回ってくると、千葉監督はきっちりとセンター前ヒットを放ちます。さらに次打者が放ったライト前ヒットを外野手が後逸。この間に千葉監督は一気に二塁、三塁を回って長期ホームイン。千葉監督自らのハッスルプレーに観客は大いに沸きました。

        巨人は最終的には大洋に大量17点を献上し一方的な負け試合になりますが、「ダブルヘッダー2試合目でこの展開は申し訳ない」と感じた千葉監督は、8回裏には巨人二軍きってのスター選手・馬場正平をマウンドに送ります。巨人の一方的な負け試合にもかかわらず、往年の名選手である千葉茂のプレーを実際に目にし、人気者の馬場も登板したとあってお客さんは大喜びでした。

        もちろんこの試合は公式戦ではないのでスコアブックには残らない記録ですが、千葉茂も二軍監督時代に試合に出場したことがあったのです。

        塀の中のプロ野球

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          池袋のサンシャインの建っている敷地は、かつては戦争犯罪者(戦犯)を収容する巣鴨拘置所があったということを知っている方もいらっしゃるかと思います。私は今から10年前(25歳の頃)にサンシャイン内の会社のオフィスで働いていましたが、ここに巣鴨拘置所あったということは知りませんでした。


          何でこんな話をするかというと、かつて巣鴨拘置所の中でプロ野球二軍の試合が開催されたことがあるからです。
          1952年3月28日、読売新聞と毎日球団の共催で巣鴨拘置所内で巨人二軍−毎日二軍による1060名の戦犯を慰問するための試合が行われました。
          この年から創設された毎日二軍の初代監督は、社会貢献活動に積極的だった若林忠志でした。


          巣鴨拘置所はレフトまで360フィートで、メートルに換算すると実に109〜110メートルもの距離がある大きなグラウンドでした。
          服役者はこの試合を非常に楽しみにしており、前日には天気予報を気にしながらテルテル坊主をぶら下げて試合当日がくるのを待っていたと言います。

          報知新聞がこの試合の様子を報じており、「場内アナウンスが軍隊口調」だったと書いています。軍隊口調のアナウンスがどんなもんなのか聞いてみたいもんです。試合後には拘置所内で作られたバット10本が贈呈され、両球団の選手は収容者たちが握った寿司をご馳走になっています。

          巣鴨拘置所
          巣鴨拘置所3




          2ヶ月後の5月19日、巣鴨拘置所内第二回野球戦として、今度は国鉄を加えた3球団による慰問試合が開催されます。
          巣鴨拘置所2

          そしてこの試合が好評だったことと、「本格的な野球場でプロ野球の一軍の試合を見たい」という服役者の希望に応える形で、11月26日に後楽園球場で行われる「ファン感謝野球祭」のオープン戦に、約600人の服役者を招待することにつながりました。なお、6月13日には女子野球の試合も巣鴨拘置所内のグラウンドで行われています。
           

          幻に終わったロッテファイターズ後編

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            前編はこちら

            新チーム「ロッテファイターズ」は野球協約を改正した上で、プロ野球実行委員会の場で正式に承認される見通しでしたが、これに太平洋の中村オーナーが異議を唱えます。

            野球協約では「二個以上の球団の兼職の禁止」が明文化されており、試合協定事項では選手間の私語談笑も禁じられています。先のプロ野球実行委員会では、合同チームのためにこれらの協約を改正する方向でしたが、「少数球団の意向で憲法ともいうべき野球協約を変えるのは筋が違う」というのが中村オーナーの言い分で、ヤクルトの松園オーナーもこの意見に賛同しました。

            そして中村オーナーは「実行委員会で決まった合同二軍チームは協約違反である」とコミッショナーに提訴します。これを受け、大浜コミッショナーは1974年1月31日に鈴木、岡野両リーグ会長を呼び出して事情を聴取しました。
             

            この結果、大浜コミッショナーは「野球協約になぜ兼職の禁止を設けているのか根本的に考えてみるべきだ」とし、合同によって選手同士に馴れ合いが生じ、ひいては八百長問題に発展するおそれがあることから、「世間の疑惑を招くようなことはするべきではない」と合同チームを認めるための野球協約改正の意思がないことを明らかにしました。
            1969年から1971年にかけて球界を震撼させた黒い霧事件が起きているため、大浜コミッショナーもこの手の話しには相当ナーバスになっていたものと思われます。
             
            一度は決まりかけた合同チーム「ロッテファイターズ」でしたが、コミッショナー裁定によりご破算となり白紙に戻ってしまいます。この決定にロッテの金田監督は「欠陥が出たらその時にストップしたっておかしくはないだろ。スポーツマンに八百長があるわけがない。野球に関わっている関係者が“八百長”という言葉を口にするだけ、ゆゆしき問題だ。時代は動いており、野球規則がどうのじゃない。もっと前向きに取り組むべきなんだ。」と、怒りを露にします。

            イースタンリーグの鈴木会長も「日本プロ野球はまだ子供。法が先か実情が先か、わたしは実情をみる必要があると思う」と悔しさを滲ませました。
             

            コミッショナーの裁定により合同二軍チームの話しはなくなり、日本ハム、ロッテのイースタンリーグからの脱退が懸念されましたが、両球団とも合同チームの話しは流れても引き続きイースタンリーグに参加することとなり、その代わり選手不足を加味して1球団あたりの試合数が、1974年は前年の64試合から8試合削減され56試合となりました。
             
            日本ハムは1974年のイースタンリーグの成績は26勝26敗4分の3位でしたが、ロッテは13勝40敗3分で優勝した巨人とは22.5ゲーム差を離され、5位のヤクルトとも13ゲーム差のダントツの最下位に終わりました。

            以上、今から40年以上前に起こったイースタンリーグのちょっとした出来事でした。

             

            NPBは過去のファームの記録を公開すべきだ

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              「ロッテファイターズ」の続編は次回更新時にアップします。
              今日は野球の記録に関して。


              私は野球好きであると同時に、野球記録のマニアでもあります。
              インターネットの普及によりNPBの公式サイトで公開されている個々の記録は充実してきましたが、個人的に抱えている不満がいくつかあります。

              まず守備の記録。
              個人のポジション別の試合数こそ分かるようになっていますが、イニング数が分かりません。これでは正確なRFが割り出せず、正確な守備力が割り出せません。
              ※RFについては広尾晃さんが野球好きコラムで詳しく解説しています。

              もう一つの不満が、外野手の守備位置がレフト、センター、ライトが「外野」で一括りにされていること。
              外野手もそれぞれのポジションでの役割があるわけですから、やはりレフト、センター、ライトの3ポジション別の守備記録を取るべきです。

              そして私が抱えるもっとも大きな不満が、過去のファームの記録です。
              NPBの公式サイトでは2005年以降のファームの記録は公開されていますが、2004年以前の記録は公開されていません。
              記録マニアな私は一軍の数字だけでなく、ファームの数字も並べた個人別のSTATSを眺めたいのです。
              ファームでの数字も並べてみることにより、その選手の生き様や成長の過程がはっきりと分かるからです。


              1979年以降はオフィシャルベースボールガイドでイースタンリーグ、ウエスタンリーグの個人記録も掲載されるようになりましたが、1978年以前についてはオフィシャルベースボールガイドでは規定打席、規定投球回数に到達した選手のみしか記録が残っておらず、規定打席、規定投球回数未満の選手の個人記録を調べる術がありません。

              オフィシャルベースボールガイドに掲載されていない以上は自分で調べるしかありませんので、私は1961年から1978年までの新聞を徹底的に調べ、イースタンリーグの全てのスコアを集計して個人別の二軍の記録を割り出しました(全球団やってる余裕はないので巨人だけですが)。当時の新聞には誤植も多いため、全てが正確な数字とは言えないのですが・・・。


              ここで、第一次長嶋監督時代のドラフト一期生・定岡正二にフューチャーしてみます。
              定岡のキャリアを振り返ると、1974年ドラフト1位で巨人に入団。5年間の二軍生活を経て、6年目の1980年に一軍で9勝を挙げて頭角を現し、1981年から2年連続で二ケタ勝利を挙げ、江川、西本とともに三本柱を形成。1985年シーズンオフに有田修三とのトレードで近鉄への移籍が決まるがこれを拒否。29歳の若さで現役を引退します。

              定岡1

              ↑が定岡のSTATSになりますが、これだと一軍の数字のみで、頭角を現す前の1975年〜1979年のファームでの歩みが分からず、成長の過程が見えまてきません。では、このSTATSにファームの記録を足すとどうなるか。



              どうでしょうか?
              こうやって一軍と二軍の数字を並べてみることにより、定岡の成長の過程が見えてこないでしょうか?1979年の二軍での2ケタ勝利を経て、1980年の一軍での9勝につながっていくのです。一軍の記録のみではわからないことが、二軍の記録を並べてみることにより見えてきます。


              いつになるか分かりませんが(もしかしたら永遠にないかもしれませんが)、いつの日か、NPBが過去のファームの記録も公開してくれる日が来ることを心から願います。


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