スポンサーサイト

0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    • 2017.01.17 Tuesday
    • -
    • -
    • -
    • -
    • by スポンサードリンク

    幻に終わったロッテファイターズ前編

    0
      1973年11月、ヤクルトの監督を退任し日本ハムの球団社長に就任した三原脩はさっそくファームの合理化に向けて動きます。

      日本ハムの選手保有数は50人に足らず、ケガ人が出た時はイースタンリーグの試合にも支障が出ていました。
      そして、日本ハムと同じような事情を抱えていたのがロッテでした。ロッテも選手保有数は50人に足らず、選手不足のためイースタンリーグの試合には投手が野手として出場する有様でした。
       

      この現状に「二軍のための二軍を持つのは避けたい」と考えた日本ハムの三原球団社長は、ロッテに二軍の合同の話しを持ちかけます。具体的には両球団から15人ずつの選手を出し合って “ロッテファイターズ”として一つのチームを作る案を打ち出します。

      選手、コーチともにそれぞれ球団との契約はそのままで、練習と試合を一緒にして利益損失は折半し、「選手層の薄い日本ハムとロッテが合同して力のあるチーム同士で試合をやれば、より充実したものが出来るのではないか」という考えからでした。


      1973年12月18日、ロッテの石原代表と日本ハムの三原球団社長はイースタンリーグの鈴木会長の元を訪ね、両球団の二軍の合同化を申し入れます。申し入れを受けた鈴木会長は「差し支えない」という見解で、イースタンリーグの幹事会も「リーグの存続を願う」立場から両球団の合同化を認めました。

      1955年に発足しながらわずか1年限りでリーグ戦休止に追い込まれ、その後再開まで5年もの歳月がかかった苦い過去を持つイースタンリーグだけに、鈴木会長には「二度と同じ憂き目に遭いたくない」という想いがあったのだと考えられます。

       
      年が明けた1974年1月16日、プロ野球実行委員会の場でイースタンリーグ幹事会から出された「日本ハム、ロッテが合同二軍チームを結成し、イースタンリーグ戦に参加する要望」を協議。合同チームは野球協約の「兼職の禁止」の項に接触することから、野球協約を一部改正した上でこれを認める方針が決まり、実行委員会からは、以下
      3つの条件が出され、日本ハム、ロッテの両球団はこれを了承します。

      1.チームは独立した行動をとること。
      2.フロントの責任者、監督を1年間変更しないこと。
      3.選手を両チーム15人ずつ、計30人にすること。



      これにより事実上ロッテファイターズの誕生は時間の問題となりました。

      相川、巨人入団に関する考察

      0
        FA宣言していたヤクルト・相川の巨人入りが報じられました。
        しかし相川の巨人入りに関しては「小林を育てるつもりじゃなかったのか?」と専門家や巨人ファンから批判的な意見も多く聞かれます。
        今回は野球史ネタではなく、珍しく時事ネタで巨人の相川獲得に関して私なりの考察を書いていこうと思います。


        まず巨人の捕手事情をおさらい。
        来年からは阿部が一塁手に転向することが決まり、巨人の捕手陣容は小林、實松、加藤、鬼屋敷、河野に育成ドラフトで獲得した田中貴也の6人。
        普通に考えれば一軍は2年目の小林に、實松、加藤の両ベテランの3人体制を敷くのでしょうが、正直この面子で1年間143試合の長丁場を戦うのはちと厳しいです。それは誰が見たって明らかでしょう。イースタンリーグだって100試合近いシーズンがあり、シーズン中に誰かがケガをする可能性だってあるわけで、そもそも捕手の頭数が足りてません。

        そりゃ巨人ファンだったら「小林が120試合くらいスタメンマスクを被って、残りは實松と加藤で・・・」とそろばんをはじきたいですが、プロ野球の世界そんなに甘くはありません。


        プロでのキャリアがまだ1年しかない小林に過度な期待は禁物。つまり、巨人は小林がコケた場合のことも想定しなくてはなりません。「實松と加藤がいるじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、たしかに實松、加藤は経験もあり優秀な捕手ですが、それは絶対的な正捕手の阿部がいたからではないでしょうか。つまり、「阿部の控え」として優秀なのです。今までは阿部の休養時か体調不良時に年間数試合マスクをかぶる程度で、その数試合で力を発揮してくれましたが、これが年間になってくるとどうか。はっきり言って、2人とも正捕手を任せるには物足りないレベル。

        となると阿部を一塁手から再コンバートさせるなんて考えも出てきそうですが、原監督は、阿部をもう捕手には戻さないことを公言しています。

        そういう意味で、「小林がコケても阿部を捕手に戻さない」手立てを考えなければなりません。
        そこで経験豊富な相川を獲得することによって、小林がうまくいかなかった場合は相川を起用。相川がいることにより、小林がコケても周囲から阿部の捕手再コンバートの声を打ち消せます。

        すなわち、相川は正捕手・小林がダメだった時の保険であり、一塁手・阿部を完全実現させるための保険でもあります。


        巨人は「レギュラー捕手は横一線で勝負」を強調して相川を口説き落としましたが、FAで獲得しようとする選手に「若い小林のバックアップをしてやってください」なんぞお願いできるはずもないでしょう。
        おそらくはシーズン序盤は小林を優先的に起用し、ある程度の見極めをした段階で相川との併用、もしくはずっと小林でいくというような判断になるのではないでしょうか。


         

        韓国で行われた公式戦

        0
          2002年5月14日、ダイエーとオリックスが台湾へ遠征し公式戦を開催し、海外で公式戦が開催されるのはアメリカの占領地だったころの沖縄を除くと、1940年7月〜8月に全球団で実施した満州遠征以来ということでちょっとした話題となりました。
          しかし、ダイエーとオリックスが台湾遠征をした2002年から38年前の1964年、イースタンリーグの公式戦が韓国で開催されたという事実はほとんど知られていません。


          1964年5月29日。東映、大洋の両チームは小倉から船で釜山へ渡り、ソウル、大邱、釜山を転戦し、公式戦4試合、地元チームとの交流戦4試合の合計8試合を行いました。
          まだプロ野球がなかった韓国ですが、4月30日、31日の試合には連日1万5千人の観客が訪れ、ソウル球場を満員にするほどの盛況ぶりだったと言います。


          イースタンリーグの韓国遠征そのものは大成功し、「韓国にプロ野球でプロ野球が始まる日も近い」かに思われましたが、実際はこの遠征から韓国プロ野球が始まるまでは18年待つことになります。。

          夏休みの自由研究番外編〜馬場正平の野球人生〜

          0
            夏休みの期間を利用して馬場正平の野球人生を追ってみましたが、新たに入手した資料で判明したことを番外編として発表しようと思います。

            馬場が最も活躍したのが1958年であることは既に発表の通りですが、1958年は3月8日に完投勝ちして以降、6月14日まで登板の間隔が空きます。この間、馬場は右腕関節の軟骨除去の手術を受け、リハビリに励んでいました。

            情報が発達していない当時、二軍は存在すら知られていないような選手が大半を占める中、身長が2mを超える馬場はどこにいても目立つこともあり、巨人二軍きってのスター選手でした。この時代、巨人二軍は毎年夏前に北海道に長期の遠征を実施していましたが、「馬場が投げられなくてはファンにすまない」と北海道遠征の日程も延び延びになり、馬場の回復を待って北海道遠征の日程が決まったのでした。

            実績は全くないながらも、馬場がスター選手だったということが分かるエピソードでした。

            とんでもない勘違いでてんやわんや

            0
              相変わらずの二軍史です。

              現在巨人の二軍は、イースタンリーグ公式戦以外にしばし社会人や大学のアマチュアチームと交流戦を実施しています。ソフトバンクも三軍を編成し、ウエスタンリーグ公式戦とは別に、四国アイランドリーグに参戦したりアマチュアチームとの交流戦も行っています。

              昔のファームは、シーズン中に公式戦とは別にしばしオープン戦を行っていました。これは実践の場を確保するためでもありましたが、地方へ遠征した際に日程を有効的に利用するという興業的な面もありました。
              また、地方球場はグラウンドの整備が行き届いていない時もあり、選手が全力プレーをするのに支障をきたすグラウンド状況と判断されるような場合は、急きょ公式戦がオープン戦に変更になるというケースもありました。以下は1961年に起こったエピソードです。


              国鉄と巨人の二軍は信越地方へ帯同遠征し、この日はイースタンリーグ公式戦とオープン戦の変則的なダブルヘッダーが予定されていました。ところが国鉄はこの日の日程を「公式戦ダブルヘッダー」と勘違いし、第2試合目のオープン戦も公式戦用の選手起用を行いました。1点を争う接戦にも関わらず、試合終盤になり巨人が普段はイースタンリーグの公式戦には登板しない打撃投手の荻野一雄が登板してきたことで国鉄側は「おかしい」と気が付き、この試合が公式戦ではなくオープン戦だったことを知ったと言います。

              ただでさえ選手数が少ない国鉄は大慌て。翌日は公式戦のダブルヘッダーが予定されていましたが、ダブルヘッダーでは投手のやりくりができないため巨人側に頼み込んで翌日を「公式戦ダブルヘッダー」から、「公式戦とオープン戦のダブルヘッダー」に変更してもらい事なきを得ました。

              いまでは考えられないような話しですが、実際にこのようなとんでもない勘違いが起きたのでした。


               


              PR

              calendar

              S M T W T F S
                 1234
              567891011
              12131415161718
              19202122232425
              2627282930  
              << November 2017 >>

              野球ブログ瓦版!

              ゆるすぽweb

              selected entries

              categories

              archives

              recent comment

              • 三軍の歴史−下−
                名無し
              • ルーキーイヤーの松井秀喜の二軍成績
              • ライト中畑清
                管理人
              • ライト中畑清
                XLIV
              • 金城龍彦の父のプロ野球選手時代
                マニア
              • 山崎福也の父は二軍の強打者だった
                れみちち
              • 巨人軍多摩川グラウンド跡地を訪ねて
                管理人
              • 巨人軍多摩川グラウンド跡地を訪ねて
                管理人
              • 巨人軍多摩川グラウンド跡地を訪ねて
                たか
              • 吹石徳一の二軍成績
                イレブン

              links

              profile

              search this site.

              others

              mobile

              qrcode

              powered

              無料ブログ作成サービス JUGEM