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    • 2017.01.17 Tuesday
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    実際にジャンパイアが存在した?

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      一昔前は、審判が巨人寄りのジャッジをしているのではないかということが度々噂されされ、実際に巨人に有利な誤審が起こると“ジャイアンツのユニフォームを着た審判“ということで「ジャンパイア」と揶揄された。
      しかし、過去には実際にジャイアンツのユニフォームを着た審判が存在していた!?


      イースタンリーグが休止していた1956年〜1960年の間、巨人二軍は国鉄二軍や大洋二軍と積極的に地方へ帯同遠征し興行試合を開催していた。

      公式戦ではない地方で開催する二軍戦となると審判団は手が回らない。そこで、巨人の二軍コーチだった武宮敏明がしばし審判としてジャッジをしていた。正確なジャッジは選手たちからも好評だった。
      武宮敏明は、正真正銘ジャイアンツのユニフォームを来た審判のジャンパイアだった。


      これは非公式戦だった時代の二軍の話しだが、実際に二軍の公式戦でアクシデント発生により選手が審判をつとめたケースも存在する。1973年4月25日に大阪球場で行われたウエスタンリーグ公式戦、南海−阪神戦でのこと。


      この試合は主審:馬場、一塁:牧野、三塁:土井垣の三氏審判員がジャッジを担当した。
      しかし一回裏一死、南海の島本講平が放った左中間への二塁打で一塁方向に飛び出した馬場主審が芝生に足を取られて転倒。この際に右足首をねん挫した。馬場主審はそのまま病院に運ばれ(全治三週間と診断される)、試合早々に審判員が二名となってしまった。


      このため、ウエスタンリーグ規約の「審判員が三名に満たなかった時は両チームより一名ずつの臨時審判員を選び試合を行わう」が適用され、主審には一塁の牧野、一塁には三塁の土井垣が移動し、南海の緒方修(投手)が二塁審判、阪神の伊藤幸男(投手)が三塁審判に入り試合が再開された。試合中に審判が負傷し選手が代役したのは初めてのケースだった。


      1973年4月25日 大阪球場
      阪神二軍 010 010 000 = 2
      南海二軍 205 200 00X = 9

      ▽バッテリー
      (神)古沢、池島−大島、大和田
      (南)伊藤、池之上−梅村、松本
      ▽二塁打
      (南)阪田、島本、片平
      ▽時間
      2時間18分
      ▽審判
      主審:牧野、一塁:土井垣、二塁:緒方(南海)、三塁:伊藤(阪神)

      打撃投手から復帰した西清孝

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        ヤクルト阿部健太が打撃投手から現役に復帰したことはちょっとした話題になっている。せっかくなので、打撃投手から現役に復帰したつながりで、元横浜の西清孝の二軍成績を調べてみた。


        1984年にドラフト外で南海に入団。1990年のシーズン途中に広島に移籍。1993年限りで戦力外となり横浜にテスト入団。1994年は選手登録ながら1年間を打撃投手として過ごした。しかし、西は現役復帰をあきらめていなかった。打撃投手ながら打席に立つ打者にはインコースへシュートを投げこむ姿が近藤監督の目に留まり、打撃投手転向から1年後の1995年に正式に現役に返り咲いた。



        西の二軍での通算成績。打撃投手に転身する1994年まで二軍通算35勝。現役復帰後の1995年は二軍戦で自己最多の36試合に登板。防御率2.03と抜群の成績を残す。
        1997年に中継ぎとして一軍に定着し58試合に登板、13年目にしてプロ入り初勝利を挙げたのがちょっとした話題となった。


        西の場合、打撃投手になる前から二軍ではまずまずの成績を残していた。そして打撃投手になってからも現役復帰を視野に入れて腕を磨きながら地道に頑張った結果、13年目の初勝利を手にした。
        阿部はちょっとケースが異なる。現役復帰を視野に入れていたわけでもないし、打撃投手をしながらも実力が認められて現役に復帰したわけではない。単に選手不足の穴埋め要員だけに終わってしまわなければいいのだが。

        裏方二人の現役復帰

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          ヤクルトは阿部健太と育成契約を結んだと発表した。阿部は昨年ヤクルトを自由契約となり10月1日に現役引退を表明。そのままヤクルトに残り今年からは打撃投手兼スコアラーに転身していたが、ケガ人続出のチーム状況のため、選手不足をカバーすることを目的に育成選手として急遽9ヶ月ぶりに現役復帰することになった。


          ヤクルトの二軍は特に野手不足が目に付く。二軍の試合には6人の捕手が出場しているが、井野卓、山川晃司以外の4人は、いずれも野手としても出場している。そんなチーム状況もあって、編成部長の松井優典は、阿部も野手として出場の可能性があることを示唆している。


          楽天でも先月の19日、捕手にケガ人続出しているチーム状況のため、横山徹也が二軍ブルペン捕手から同じく育成選手として現役復帰を果たしている。横山はさっそく6月23日イースタンリーグの試合終盤にマスクを被った。昨日の時点でイースタンで7試合に出場している。


          過去にも裏方がシーズン途中に選手不足のために現役復帰をするケースはあったが、1シーズンで2人というのは極めて珍しいと思う。


          昔の二軍で見てみると、選手不足によりシーズン中にコーチが現役復帰をするケースがあった。
          まずは巨人の武宮敏明。武宮は1953年からは本業の捕手としては廃業しほぼコーチ業に専念していたが、1954年、棟居進が肩の故障、村田喜三郎が盲腸炎により入院したため巨人の二軍は捕手不足となった。


          当時セリーグの二軍は新日本リーグという公式戦を行っていたが、巨人は捕手不足により試合を行うことが危ぶまれた。そこでコーチ業に専念していた武宮に白羽の矢が立った。武宮は新日本リーグ後期戦の25試合中、8試合に出場している。
          しかし、武宮は捕手廃業状態ででほぼコーチ業に専念していたとはいえ選手登録されていた身分なので、このケースは正確には現役復帰とは言い難い(1955年からは正式にコーチ登録)。


          本当の意味で二軍の選手不足により現役復帰となった初めてのケースは、ヤクルトの前身球団にあたる国鉄の林田章三ではないだろうか。休止中だったイースタンリーグが1961年から再開するが、国鉄はケガ人が続出。二軍が控え選手を含めて12人という状況になってしまった。そこで国鉄は1958年限りで現役を引退し二軍コーチをつとめていた林田章三を3年ぶりに現役に復帰させた。

          林田は7月2日のイースタンリーグの国鉄−大洋戦でさっそく一塁手としてスタメン出場。守備では2つの失策と精彩を欠いたが、延長12回に回ってきた打席ではライト前ヒットを放っている。林田は大洋との試合後の大毎四連戦にも出場。大毎戦ではホームランを放っている。
          大毎四連戦後に久々の試合出場が祟ってか左足に軽い肉離れを起こすが、シーズン終了まで二軍戦に出場し続けた。しかし、しょせんは二軍の選手不足の穴埋めのための現役復帰であり、一軍への昇格はならなかった。


          その後、1966年に選手不足をカバーするために二軍監督、二軍コーチは二軍の試合に出場できる規約が作られ、1983年まで続いた。以前に当ブログでも紹介したが、何人かのコーチが実際に試合に出場した。


          話しを元に戻すが、横山、阿部の2人は育成契約とはいえせっかく現役に復帰したのだから大きなチャンスだ。このまま単に二軍の選手不足をカバーするのに終わらずに、今後、育成選手から支配下登録を勝ち取り一軍を目指して欲しい。
           

          山崎福也の父は二軍の強打者だった

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            親子でプロ野球選手といえば、長嶋茂雄&一茂と野村克也&カツノリが有名だが、現役選手では、黒田博樹(広島)、堂上兄弟(巨人&中日)、金城龍彦(巨人)、山崎福也(オリックス)の父親は元プロ野球選手だ。


            黒田の父・一博と堂上兄弟の父・照がまずまず活躍した一方、金城の父・晃世と山崎の父・章弘はほとんど活躍していない。
            しかし山崎福也の父・章弘は、通算試合出場数が44試合にも関わらず、巨人、日本ハムの2球団で12年間もプレーした。実績が乏しいながらも10年以上現役を続けられたのは二軍の強打者だったからだろう。


            1979年、ドラフト2位で巨人に入団。二軍監督の岡崎郁と同期。


            ※1990年の守備別出場数は未調査


            キャッチャーでの入団だったが、当時の選手名鑑の寸評によれば、インサイドワーク、スローイングに難点がありキャッチャーとしてはあまり評価されていない。実際、二軍でも4年目の1983年からは打力を優先して一塁手としての出場機会の方が増えていく。


            1986年の6月に初めて一軍に昇格する。この年、巨人には2000本安打達成を目前に控えながら、出番に恵まれずに完全に浮いた存在となっていた元阪急の四番・加藤英司がいた。加藤は全体練習の2時間以上前には球場入りして、試合に出れない鬱憤を晴らすかのように早出特打ちの毎日を送ったが、その加藤の練習のパートナーとして山崎は毎日誰よりも早く球場入りしていた。


            1987年は代打の切り札として一軍で22試合に出場。少ない打席ながらも3割を記録し6打点をマークしている。
            1990年日本ハムに移籍。1991年で現役を引退するが、12年間で二軍で放ったホームランは50本。全安打の10%以上はホームラン。安打の1/3以上が長打とパンチ力のある打力が魅力だった。
            引退後は長らく日本ハムでコーチをつとめた。その後、2005年から2年間中日コーチを経て、現在は独立リーグの指導者。


            父の現役時代は二軍の帝王止まりだったが、果たして子の山崎福也はどうだろうか。

            完投じゃないけど完封

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              1972年5月9日、甲子園球場の阪神−大洋戦のこと。阪神の先発は若生智男だったが、初回、大洋の1,2番に連打を浴び、ベースカバーに走った時に転倒。若生は足首を痛めて退場した。


              そこで、急遽リリーフしたのが上田二朗だった。無死で走者一、二塁のピンチで、打順はクリーンアップへ続く。しかし上田は全部内野ゴロに打ち取った。そしてその後も快調に飛ばし、大洋を無得点に封じて、阪神が1体0で勝った。


              上田には野球規則の「一回無死無失点の時に代わって出場した投手が、無失点のまま試合を終わった場合はシャットアウトが記録される」が適用され、先発ではないため完投ではなかったが完封勝利という珍しい記録となった。

              調べてみたところ、この日の出来事はスポニチの日めくりカレンダーでも紹介されていた。


              そしてこの珍記録から約4か月後の9月5日。平和台球場で行われたウエスタンリーグの西鉄−南海戦でのこと。
              西鉄の先発は2年目の青木政美。ところが青木は初回、1番藤原、2番山本(晴)に連続四球を与えてしまう。すると西鉄ベンチは早くも青木に見切りをつけて柳田豊をリリーフに送った。


              柳田はきっちりと後続の打者を打ち取ると、その後は南海先発の辻原幸雄との投げ合いが続いた。柳田は8安打を浴びながらも無失点のまま延長10回までを投げ切った。


              すると西鉄は10回裏に伊原春樹の安打を足掛かりにサヨナラのチャンスを作り、柳田の代打・小川弘文が救援の緒方修からタイムリーを放ちサヨナラ勝ち。初回無死一二塁から登板し、延長10回までを1人で投げ切った柳田には救援ながらも完封勝利が記録された。

              「完投ではないが完封勝利」の珍記録は一軍でも二軍でも一度しかないが、奇しくもどちらも1972年の出来事だった。


              1972年9月5日 平和台球場
              南海二軍 000 000 000 0  = 0
              西鉄二軍 000 000 000 1A= 1
              (南)●辻原、緒方−柴田
              (西)青木、○柳田−川野

              西鉄投手成績
                    回  安 三 四 責
              青木    0/3    0     0    2    0
              柳田 10        8     4    2    0

               

              山本浩二は二軍戦に出場したことがある

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                ミスター赤ヘルこと広島の山本浩二。現役通算18年で規定打席到達が18回。すなわち、入団から引退までずっとレギュラーだったということを指している。入れ替わり&浮き沈みの激しい野球の世界で、入団から引退までレギュラーで居続けることはできなさそうでできない。他は長嶋茂雄くらいだろうか。


                18年間で2284試合に出場しているので、1年平均で126試合。山本の偉大さが伝わる数字だと思う。
                入団から引退までレギュラーで居続けたわけなので当然二軍の試合なんかに出場したことはないかと思っていたが、調べてみたら二軍戦の出場経験があった。


                入団1年目の1969年9月14日。広島球場で19時から阪神とのナイターが予定されていたが、その前座で行われたウエスタンリーグの中日対広島戦。広島二軍にとって59戦目(年間60試合)となるこの一戦に3番センターで出場。

                山本浩二のとって初めての二軍戦だったが、この試合は延長16回の熱戦となった。山本は試合開始から終了までフル出場。全部で6打席回ってきたが、4打数0安打2四球だった。


                1969年9月14日 広島球場 ウエスタンリーグ
                中日二軍 000 100 000 000 000 0 = 1
                広島二軍 010 000 000 000 000 0 = 0
                (中)土屋、山中−吉沢
                (広)宮本−水沼


                さらにこの翌日行われた広島二軍にとってシーズン最終戦となるウエスタンリーグの中日戦に一番センターで出場。前日に続いてこの日もフル出場し、結果は4打数1安打だった。なお、この日の夜に行われたナイターの阪神戦に、試合途中からセンターの守備に入っている。

                山本浩二が生涯で二軍戦に出場したのは1969年9月14日、15日の2試合のみだった。


                山本浩二の二軍通算成績



                 

                東と西の違い〜前編〜

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                  プロ野球界は関東以東に本拠地を置く球団の二軍でイースタンリーグ、名古屋以西に本拠地を置く球団の二軍でウエスタンリーグを組織している。それぞれのリーグの歴史を紐解いていくと、東、西で分けているだけのように見える二軍のリーグが、似て非なるものだったという事が分かる。


                  日本のプロ野球で正式に二軍制度が公認されたのが1948年。
                  1949年に入って二軍を編成していたのは阪急、大陽だったが、これに続いたのが巨人と南海。この4球団は一軍が試合をする事のない辺鄙な地域に興行として二軍を遠征させ、時には中学校の運動場に生徒の机を並べてフェンスの変わりとし、即席の球場として試合を行うこともあった。要は試合ができそうな所であれば全国どこへでも遠征をしていた。


                  地方に住む人にとっては、例え二軍であってもプロ野球の試合が見られるとあれば街中を上げての大イベントとなった。多くの人たちが球場に足を運び、一試合あたり数千〜1万人単位で集客していた。


                  そしてセ、パの二リーグに分立した1950年、多くの球団が二軍を編成する動きに出た。ところがこの時代はプロ野球団を経営する親会社も台所事情が非常に苦しかった。二軍を持つという事は選手数が増え、イコールで人件費も膨らむ。また、試合で遠征に出れば旅費や宿泊費等もかかるため、二軍の試合が地方で興行として成立しているとは言え、二軍を維持する事は球団にとっては大きな負担となっていた。


                  この負担を解消するため、1950年オフには二軍そのものを解散や、規模を縮小する動きも出始めた。経費的な問題で地方へ遠征する機会も減り、二軍は満足に試合さえ行えないような状況にあった。
                  1951年に南海と松竹は二軍を社会人野球に転向させ、社会人の大会にも出場しているがこのことについてはいずれ紹介したいと思う。


                  しかし若い選手を育成するためには練習はもちろんのこと、実践の場となる試合は不可欠。
                  二軍の第一人者でもある阪急の西村正夫が中心となり、一定の試合数を確保するために1952年に名古屋以西に本拠地を置く球団の二軍で関西ファームリーグが誕生した。
                  関西ファームリーグは一軍の前座試合として位置づけられ、関西で一軍の公式戦を行う際にその前座で二軍のリーグ戦が行われるようになった。


                  関西ファームリーグは、その名の通り関西に本拠地を置く球団同士がまとまってのリーグ戦だったゆえに、交通費、宿泊費、球場の使用料を抑えられるというメリットもあった。しかし、二軍でもプロ野球の試合が見られるとあれば大挙して観客が訪れる地方とは異なり、一軍の試合がいつでも見られる関西圏で、しょせんは前座にすぎない二軍戦まで見に来るような物好きな観客などほとんどおらず、スタンドは閑古鳥が鳴いていた。


                  関西ファームリーグは1952年〜1954年まで3年間続き、これが母体となって1955年からウエスタンリーグがスタートする。ウエスタンリーグは、関西ファームリーグ時代の「一軍の前座試合」というスタンスがそのまま引き継がれ、地方へ遠征して試合をすることはほとんどなかった。興行という面からは完全に切り離され、観客が全く入っていない閑古鳥の鳴く球場で試合が行われる時代がしばらく続いた。


                  〜続く〜

                  元巨人軍・小松俊広さんの話しを聞く〜後編〜

                  0
                    先日の昭和20年代野球倶楽部で元巨人のスコアラー・小松俊広さんからお聞きしたお話しの後編。


                    当時の巨人軍監督から突如としてスコアラーへの転身を命じられた小松さんは、チーム付き2年、先乗り18年、再びチーム付き10年と、川上監督、長嶋監督、藤田監督、王監督と巨人軍の指揮間が変わりゆく中で30年もの間、情報戦を支えた。


                    小松さんがスコアラーとして最も印象に残っている話が、阪急との日本シリーズでの出来事。ミーティングで、当時の阪急の主力打者・長池徳士は「右投手のカーブに弱い」ということを伝えた。

                    長池に投じたカーブを痛打され、「カーブ打たれたやないか」と小松さんに文句を言う金田正一。しかし、金田は左投手。長池が弱いのは右投手のカーブ。肝心の「右投手」というところを聞き逃していたが、スコアラーの言葉なんかに耳を傾けていないと思っていた大投手・金田が自分の話しに耳を傾けていたという事が非常に嬉しかったという。


                    また、阪急との日本シリーズで特に重点的に取り組んだのは福本の足封じ。
                    9番打者(投手)が出塁して福本が打席に立つことを想定し、仮に一塁にランナーを置いている場面で福本が内野ゴロを打った場合、
                    二塁でフォースアウトではなく一塁へ投げて福本をアウトにするという作戦を考えていた。福本が一塁に残った場合は盗塁で二塁まで進み、ヒット1本で1点を与えてしまうが、二塁がランナーがピッチャーであれば、ヒット1本ではホームベースに戻って来れない可能性が高いためだ(結局、この作戦を実行する場面にならなかったため幻に終わったとの事)


                    スコアラーで大変だったのが対戦相手の先発投手の予想。V9の頃の巨人はONに続く5番打者は相手先発投手が右、左によって変わるため先発投手の予想は非常に重要だった。他球団は先発投手を悟られないように、ダミーの投手を用意し、前日に先発投手と全く同じような練習をさせたりとかく乱作戦を用いた。広島は特に小芝居がうまかったそうだ。


                    そしてお話しを聞いたことで印象に残っているのが左投手の牽制球について。面白い事をおっしゃっていた。
                    今の左投手は一塁に牽制球を放る際は、皆ホームベース方向を見ながら一塁手へ放るが、ホームベース方向ではあく敢えて走者の顔を見ながら牽制した方が走者にとってはプレッシャーがかかるとのこと。

                    ちなみに小松さん自身は入団1年目に一塁手の川上に牽制球を投げたところ、これが悪送球となってしまい、点々とする球を緩慢にに追う川上の姿を見て、「二度と牽制球は投げまい」と誓い、以降、1年目は一塁にランナーがいても一切牽制球を放らなかったそうだ(笑


                    他にも多摩川グラウンドのこと、馬場正平との思い出、70年代に流行った乱数表、ジャイアンツタイム等々たくさんのお話しを聞かせてくれた。本や新聞でしか知らなかった時代の野球を、実際に当時を知る人から貴重なお話を聞けた一夜だった。

                    元巨人軍・小松俊広さんの話しを聞く〜前編〜

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                      昨日の昭和20年代野球倶楽部では巨人の元投手でスコアラーの小松俊広さんから当時の貴重なお話しをたくさんお聞きした。
                      2ヶ月前にも別件でお話しを聞かせていただいたが、次々と出てくるレジェンドたちの名前に非常に興奮した。小松さんからお聞きした事の一部を紹介したいと思う。


                      まず小松さんの球歴から紹介すると、1940年1月生まれの高知県出身。1958年巨人に入団。1962年限りで引退し球界初のスコアラーに転身。スコアラー、二軍の査定担当を歴任し、現役時代を含めると巨人軍在籍年数は45年。





                      幼少期は警察官か学校の先生になろうと思っていた小松さんだったが、10歳だった1950年に実家が連帯保証人で多額の債務を負ってしまう。同時期に、進駐軍からグローブを買ってもらったことをきっかけに、実家が背負ってしまった負債を返すためにプロ野球選手を目指すようになった。

                      1957年に甲子園春の大会に出場し準優勝投手となるが、決勝戦で投げ合ったのが早稲田実業高校の2年生・王貞治だった。甲子園敗退後間もなく巨人からスカウトされ1958年に入団。学年は異なるが、長嶋茂雄が同期入団だった。入団1年目の1958年は毎月の給与が15日、月末の2回払いだったそうだ。


                      小松さんは高卒ながら1年目から一軍に抜擢される。あの天覧試合にもベンチ入りをしていた。そして同期入団で親交の深かった長嶋さんのエピソードをたくさん披露してくれた。


                      入団1年目のある日、小松さんは高校生の頃の詰襟制服で球場入りした。周囲からは「詰襟で球場に来たのはお前が初めてだ」とひやかされたという。すると、その場にはいなかったはずの長嶋がこの話を聞きつけ、それから4〜5日後に小松さんにスーツを3着もプレゼントしてくれた。

                      また、ハワイに行った際にホテルに財布を置いておいたら中身を全てすられてしまい、するとまたその場にいなかったはずの長嶋がこの話を聞きつけ、気前欲小松さんに●ドルをくれた。

                      とあるパーティーに出席した際に司会者からその日の体調を聞かれ「3割7分6厘です」と答えたが、風邪気味で熱が37.6度あり、打率で答えたのだという。アメリカに行った際には「外車だらけだ」「子供達が英語うまいな」と言った話等々、とにかく長嶋さんネタがつきない。
                      そして長嶋は、決して「人を疑わない」「悪口を言わない」「愚痴をこぼさない」「言い訳をしない」人だったそうだ。


                      プロ野球の世界ではあまり活躍できなかった小松さんだが、1962年オフ、当時の川上哲治監督から日米野球のタイガース戦を見てくるように命じられた。それ以外の指示はなかったが、小松さんなりに「試合を見て来いという事は、タイガースの報告書を作成することだな」と理解し、試合後に報告書を川上に提出したところ、その場で川上からスコアラーへの転身を命じられた。日本球界にはまだスコアラーなどいない時代。こうして、球界初のスコアラーとなった。


                      同時に元投手の高橋正勝もスコアラーとなり、2人の役割は高橋が先乗り、小松さんがチーム付き。今では投手の球種やコースを9マスに記載するのは当たり前の事だが、いかんせん球界で前例のないスコアラーだったけに、当初は試行錯誤の連続。

                      スコアラーになりたての頃は、投手の投球内容を「1球目 外角低め。スライダー。ボール」のように言葉で表現していたという。
                      だが言葉ではイメージが涌きづらく分かりにくい。打者に分かりやすく伝えるにはどうしたらいいかと考えていくうちに、今では当たり前の9つのマス目にたどり着いたのだ。


                      しかし驚く事に、スコアラーに転身するよりも前の高校時代、このとき既に小松さんは自分でノートにマス目を書き、相手高校の投手の球種やコースをメモしておく作業をしていた。実際にそのノートも見せていただいたが、既に高校生の頃からスコアラーとして資質があったということを思わせた。


                      後篇に続く

                      誰も知らない隠れた大記録

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                        イースタンリーグの過去の最優秀防御率のタイトルホルダーを見ていくと、1968年に大洋の淵上澄雄が残した「防御率0.13」という数字がひときわ際立つ。



                        淵上は岐阜短大附属岐阜高から1965年ドラフト3位で大洋に入団。2年目の1967年に一軍で2試合に登板している。

                        1968年はイースタンリーグで12試合に登板、70.1回を投げて自責点1で防御率0.13。二軍とはいえこの記録は凄まじい。しかし、この記録には驚くべき真実が隠されている。



                        まずは1968年の淵上のイースタンリーグの登板記録を見ていただきたい。




                        初登板となった3月31日の東京戦で自責点を喫っしているが、それ以降は驚くことに6月25日まで11試合連続で自責点を一切許していない。さらに3月31日の東京戦の淵上の投球内容を振り返ると、もっと驚くべきことが隠されていた。



                        この試合、淵上は先発の木原義隆に代わって2番手として四回からマウンドに上がった。代わったばかりのところを東京打線につかまりいきなりランナーを三塁に背負うと、内田圭一の内野ゴロの間に1点を失った(自責点)。しかし、それ以降は八回まで無失点に抑えて勝利投手になると、淵上は勢いに乗った。この日以降、6月25日までに登板した11試合で5失点こそ許しているがいずれも失策絡みだったため自責点はゼロ。



                        冒頭で書いた通り、1968年の淵上は70.1回を投げて自責点がたったの1という記録を残しているが、唯一の自責点は初登板の最初の回に喫したもので、以降は69.1回を投げて自責点がゼロだったのだ。

                        国鉄の金田正一が1958年4月30日から5月27日までの間、64イニング連続で自責点ゼロを記録しているが、二軍では大洋の淵上がこれを上回る69イニング連続で自責点ゼロという大記録を樹立していた。



                        1968年は6月25日を最後に淵上は一軍に完全定着したためこの年は以降イースタンリーグで投げることはなかった。よってこの記録は翌1969年まで持ち越された。



                        そして1969年のペナントレース開幕前の4月6日に川崎球場で行われたイースタンリーグの産経戦、淵上は3番手として六回からマウンドに上がった。すると、先頭の関口穣二にいきなりホームランを被弾。継続中の69イニング連続自責点0の記録は呆気なく途切れてしまった。



                        しかし、淵上が残したこの記録は二軍とはいえ“すさまじい記録だった”ということに変わりはない。大昔の二軍には誰も知らないであろうこんな大記録が隠されていた。そして、このアンタッチャブルな記録はおそらく今後一生破られることはないのではなかろうか。


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