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    • 2017.01.17 Tuesday
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    実際にジャンパイアが存在した?

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      一昔前は、審判が巨人寄りのジャッジをしているのではないかということが度々噂されされ、実際に巨人に有利な誤審が起こると“ジャイアンツのユニフォームを着た審判“ということで「ジャンパイア」と揶揄された。
      しかし、過去には実際にジャイアンツのユニフォームを着た審判が存在していた!?


      イースタンリーグが休止していた1956年〜1960年の間、巨人二軍は国鉄二軍や大洋二軍と積極的に地方へ帯同遠征し興行試合を開催していた。

      公式戦ではない地方で開催する二軍戦となると審判団は手が回らない。そこで、巨人の二軍コーチだった武宮敏明がしばし審判としてジャッジをしていた。正確なジャッジは選手たちからも好評だった。
      武宮敏明は、正真正銘ジャイアンツのユニフォームを来た審判のジャンパイアだった。


      これは非公式戦だった時代の二軍の話しだが、実際に二軍の公式戦でアクシデント発生により選手が審判をつとめたケースも存在する。1973年4月25日に大阪球場で行われたウエスタンリーグ公式戦、南海−阪神戦でのこと。


      この試合は主審:馬場、一塁:牧野、三塁:土井垣の三氏審判員がジャッジを担当した。
      しかし一回裏一死、南海の島本講平が放った左中間への二塁打で一塁方向に飛び出した馬場主審が芝生に足を取られて転倒。この際に右足首をねん挫した。馬場主審はそのまま病院に運ばれ(全治三週間と診断される)、試合早々に審判員が二名となってしまった。


      このため、ウエスタンリーグ規約の「審判員が三名に満たなかった時は両チームより一名ずつの臨時審判員を選び試合を行わう」が適用され、主審には一塁の牧野、一塁には三塁の土井垣が移動し、南海の緒方修(投手)が二塁審判、阪神の伊藤幸男(投手)が三塁審判に入り試合が再開された。試合中に審判が負傷し選手が代役したのは初めてのケースだった。


      1973年4月25日 大阪球場
      阪神二軍 010 010 000 = 2
      南海二軍 205 200 00X = 9

      ▽バッテリー
      (神)古沢、池島−大島、大和田
      (南)伊藤、池之上−梅村、松本
      ▽二塁打
      (南)阪田、島本、片平
      ▽時間
      2時間18分
      ▽審判
      主審:牧野、一塁:土井垣、二塁:緒方(南海)、三塁:伊藤(阪神)

      打撃投手から復帰した西清孝

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        ヤクルト阿部健太が打撃投手から現役に復帰したことはちょっとした話題になっている。せっかくなので、打撃投手から現役に復帰したつながりで、元横浜の西清孝の二軍成績を調べてみた。


        1984年にドラフト外で南海に入団。1990年のシーズン途中に広島に移籍。1993年限りで戦力外となり横浜にテスト入団。1994年は選手登録ながら1年間を打撃投手として過ごした。しかし、西は現役復帰をあきらめていなかった。打撃投手ながら打席に立つ打者にはインコースへシュートを投げこむ姿が近藤監督の目に留まり、打撃投手転向から1年後の1995年に正式に現役に返り咲いた。



        西の二軍での通算成績。打撃投手に転身する1994年まで二軍通算35勝。現役復帰後の1995年は二軍戦で自己最多の36試合に登板。防御率2.03と抜群の成績を残す。
        1997年に中継ぎとして一軍に定着し58試合に登板、13年目にしてプロ入り初勝利を挙げたのがちょっとした話題となった。


        西の場合、打撃投手になる前から二軍ではまずまずの成績を残していた。そして打撃投手になってからも現役復帰を視野に入れて腕を磨きながら地道に頑張った結果、13年目の初勝利を手にした。
        阿部はちょっとケースが異なる。現役復帰を視野に入れていたわけでもないし、打撃投手をしながらも実力が認められて現役に復帰したわけではない。単に選手不足の穴埋め要員だけに終わってしまわなければいいのだが。

        裏方二人の現役復帰

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          ヤクルトは阿部健太と育成契約を結んだと発表した。阿部は昨年ヤクルトを自由契約となり10月1日に現役引退を表明。そのままヤクルトに残り今年からは打撃投手兼スコアラーに転身していたが、ケガ人続出のチーム状況のため、選手不足をカバーすることを目的に育成選手として急遽9ヶ月ぶりに現役復帰することになった。


          ヤクルトの二軍は特に野手不足が目に付く。二軍の試合には6人の捕手が出場しているが、井野卓、山川晃司以外の4人は、いずれも野手としても出場している。そんなチーム状況もあって、編成部長の松井優典は、阿部も野手として出場の可能性があることを示唆している。


          楽天でも先月の19日、捕手にケガ人続出しているチーム状況のため、横山徹也が二軍ブルペン捕手から同じく育成選手として現役復帰を果たしている。横山はさっそく6月23日イースタンリーグの試合終盤にマスクを被った。昨日の時点でイースタンで7試合に出場している。


          過去にも裏方がシーズン途中に選手不足のために現役復帰をするケースはあったが、1シーズンで2人というのは極めて珍しいと思う。


          昔の二軍で見てみると、選手不足によりシーズン中にコーチが現役復帰をするケースがあった。
          まずは巨人の武宮敏明。武宮は1953年からは本業の捕手としては廃業しほぼコーチ業に専念していたが、1954年、棟居進が肩の故障、村田喜三郎が盲腸炎により入院したため巨人の二軍は捕手不足となった。


          当時セリーグの二軍は新日本リーグという公式戦を行っていたが、巨人は捕手不足により試合を行うことが危ぶまれた。そこでコーチ業に専念していた武宮に白羽の矢が立った。武宮は新日本リーグ後期戦の25試合中、8試合に出場している。
          しかし、武宮は捕手廃業状態ででほぼコーチ業に専念していたとはいえ選手登録されていた身分なので、このケースは正確には現役復帰とは言い難い(1955年からは正式にコーチ登録)。


          本当の意味で二軍の選手不足により現役復帰となった初めてのケースは、ヤクルトの前身球団にあたる国鉄の林田章三ではないだろうか。休止中だったイースタンリーグが1961年から再開するが、国鉄はケガ人が続出。二軍が控え選手を含めて12人という状況になってしまった。そこで国鉄は1958年限りで現役を引退し二軍コーチをつとめていた林田章三を3年ぶりに現役に復帰させた。

          林田は7月2日のイースタンリーグの国鉄−大洋戦でさっそく一塁手としてスタメン出場。守備では2つの失策と精彩を欠いたが、延長12回に回ってきた打席ではライト前ヒットを放っている。林田は大洋との試合後の大毎四連戦にも出場。大毎戦ではホームランを放っている。
          大毎四連戦後に久々の試合出場が祟ってか左足に軽い肉離れを起こすが、シーズン終了まで二軍戦に出場し続けた。しかし、しょせんは二軍の選手不足の穴埋めのための現役復帰であり、一軍への昇格はならなかった。


          その後、1966年に選手不足をカバーするために二軍監督、二軍コーチは二軍の試合に出場できる規約が作られ、1983年まで続いた。以前に当ブログでも紹介したが、何人かのコーチが実際に試合に出場した。


          話しを元に戻すが、横山、阿部の2人は育成契約とはいえせっかく現役に復帰したのだから大きなチャンスだ。このまま単に二軍の選手不足をカバーするのに終わらずに、今後、育成選手から支配下登録を勝ち取り一軍を目指して欲しい。
           

          山崎福也の父は二軍の強打者だった

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            親子でプロ野球選手といえば、長嶋茂雄&一茂と野村克也&カツノリが有名だが、現役選手では、黒田博樹(広島)、堂上兄弟(巨人&中日)、金城龍彦(巨人)、山崎福也(オリックス)の父親は元プロ野球選手だ。


            黒田の父・一博と堂上兄弟の父・照がまずまず活躍した一方、金城の父・晃世と山崎の父・章弘はほとんど活躍していない。
            しかし山崎福也の父・章弘は、通算試合出場数が44試合にも関わらず、巨人、日本ハムの2球団で12年間もプレーした。実績が乏しいながらも10年以上現役を続けられたのは二軍の強打者だったからだろう。


            1979年、ドラフト2位で巨人に入団。二軍監督の岡崎郁と同期。


            ※1990年の守備別出場数は未調査


            キャッチャーでの入団だったが、当時の選手名鑑の寸評によれば、インサイドワーク、スローイングに難点がありキャッチャーとしてはあまり評価されていない。実際、二軍でも4年目の1983年からは打力を優先して一塁手としての出場機会の方が増えていく。


            1986年の6月に初めて一軍に昇格する。この年、巨人には2000本安打達成を目前に控えながら、出番に恵まれずに完全に浮いた存在となっていた元阪急の四番・加藤英司がいた。加藤は全体練習の2時間以上前には球場入りして、試合に出れない鬱憤を晴らすかのように早出特打ちの毎日を送ったが、その加藤の練習のパートナーとして山崎は毎日誰よりも早く球場入りしていた。


            1987年は代打の切り札として一軍で22試合に出場。少ない打席ながらも3割を記録し6打点をマークしている。
            1990年日本ハムに移籍。1991年で現役を引退するが、12年間で二軍で放ったホームランは50本。全安打の10%以上はホームラン。安打の1/3以上が長打とパンチ力のある打力が魅力だった。
            引退後は長らく日本ハムでコーチをつとめた。その後、2005年から2年間中日コーチを経て、現在は独立リーグの指導者。


            父の現役時代は二軍の帝王止まりだったが、果たして子の山崎福也はどうだろうか。

            完投じゃないけど完封

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              1972年5月9日、甲子園球場の阪神−大洋戦のこと。阪神の先発は若生智男だったが、初回、大洋の1,2番に連打を浴び、ベースカバーに走った時に転倒。若生は足首を痛めて退場した。


              そこで、急遽リリーフしたのが上田二朗だった。無死で走者一、二塁のピンチで、打順はクリーンアップへ続く。しかし上田は全部内野ゴロに打ち取った。そしてその後も快調に飛ばし、大洋を無得点に封じて、阪神が1体0で勝った。


              上田には野球規則の「一回無死無失点の時に代わって出場した投手が、無失点のまま試合を終わった場合はシャットアウトが記録される」が適用され、先発ではないため完投ではなかったが完封勝利という珍しい記録となった。

              調べてみたところ、この日の出来事はスポニチの日めくりカレンダーでも紹介されていた。


              そしてこの珍記録から約4か月後の9月5日。平和台球場で行われたウエスタンリーグの西鉄−南海戦でのこと。
              西鉄の先発は2年目の青木政美。ところが青木は初回、1番藤原、2番山本(晴)に連続四球を与えてしまう。すると西鉄ベンチは早くも青木に見切りをつけて柳田豊をリリーフに送った。


              柳田はきっちりと後続の打者を打ち取ると、その後は南海先発の辻原幸雄との投げ合いが続いた。柳田は8安打を浴びながらも無失点のまま延長10回までを投げ切った。


              すると西鉄は10回裏に伊原春樹の安打を足掛かりにサヨナラのチャンスを作り、柳田の代打・小川弘文が救援の緒方修からタイムリーを放ちサヨナラ勝ち。初回無死一二塁から登板し、延長10回までを1人で投げ切った柳田には救援ながらも完封勝利が記録された。

              「完投ではないが完封勝利」の珍記録は一軍でも二軍でも一度しかないが、奇しくもどちらも1972年の出来事だった。


              1972年9月5日 平和台球場
              南海二軍 000 000 000 0  = 0
              西鉄二軍 000 000 000 1A= 1
              (南)●辻原、緒方−柴田
              (西)青木、○柳田−川野

              西鉄投手成績
                    回  安 三 四 責
              青木    0/3    0     0    2    0
              柳田 10        8     4    2    0

               


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